国道から
■湖南市石部。野洲川頭首工沿いを走る国道1号からです。手前の稜線は菩提寺山。石部から草津に向かって走るとき、菩提寺山の後ろから三上山が現れるところです。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
■穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
006.白馬岳・3-------
白馬山荘で一泊した翌日。ガスと風の中を黙々と行く登山者。何にも悪いコトしてないのに、何でこんなところを歩かなければならないのかと思う。誰も声を出さない。ただひたすら、黙々と前の人の踏み跡をたどっていく。
下れる道があれば、何でもいい、とにかく風下へ下りたい。結局白馬鑓温泉への道を下りた。不思議なもので、数m下っただけで、風は弱まる。尾根の風下側へ回ったのである。50mも下ると完全に風は止んだ。雪渓を越えるとまた前に現れた。猿倉までの道は長かった。
駅名表示板が木に隠れて分からないが、多分、信濃四谷(いまの白馬)だろう。木材を積んだ無蓋貨車と客車の混成列車、機関車はC12。普通の機関車は、いわゆる機関車の後ろに石炭と水を積む炭水車を牽いているのだが、この機関車は炭水車と機関車が一体になっていて、バック運転がしやすいのが特徴だといわれていた。
野球で飛んでくる球を見ながら後ろ向きにバックすることを「機関車バック」といわれるが、機関車を転写台に載せて、ぐるっと半回転、方向転換することは大変な作業だった。この機関車はこの方向転換が不要だということで、ローカル線では重宝されたという。「大阪行き」の行き先表示板。松本・名古屋経由。大糸南線(当時は大糸線は全通しておらず、信濃森上が終点だった)からの混成列車が松本まで行き、そこで長野から来た列車につなぎ替えられていたのだろう。
■近江富士写真展開催中 花緑公園ふるさと館内ギャラリー兼休憩室
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■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
南桜から
■野洲市南桜。家庭菜園の片隅にに咲いていた花である。花を撮るとどうにもつらい。名前が分からないのである。分からなければ調べればいいのだが、それができない。難儀なものである。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
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005.白馬岳・2-------
昨日見ていただいた、あのものすごいバスに揺られて猿倉へ。そして大雪渓にとりつく。これがその末端の一部、水が解け出しているところである。行くまでは、真夏に雪を見たことはない。どんなにきれいなところかと想像していった。白いには白いのだが、ほこりをかぶって、灰色に近い。考えてみれば当たり前のことだった。
このときも靴はズック靴だった。それで雪の上が歩けるのか、雑誌を読むとアイゼンとかがいるという。野球のスパイクすら履いたことがないのに、そんなスパイクの親分みたいなものがはけるのか。結局、運動具店の紹介で、四つツメのストッパーみたいなヤツをひもでくくりつけることにした。
大雪渓にとりついて間なしの写真である。写っているのは、わがパーティーの関係者ではない。この連中はピッケルを持っているし、かなり馴れた足取りである。多分その姿に尊敬の念を抱いて、後ろから、おそるおそるシャッターを切ったのだろう。このように勾配のあるものを、下から上へ向かってカメラを構えると、上りだか下りだか分からなくなる場合が多い。この場合も、2人組がいるから、その姿勢で登りだと分かるが、そうでなければ、下りだといわれても反論のしようがない。
大雪渓の上部である。ここらあたりで、斜面の勾配は30度ぐらいはある。三角定規を思い出してああ30度かと簡単にいうけれども、いざ上ってみるとこれはきつい。正面に見えている山は杓子岳。大雪渓を上ると、この角度から見たとき必ず目をひく端正な山である。いま思い出してみても、この山は印象の薄い山だった。視界がきいたのはここまで。上るに従って天気は悪くなり、白馬山荘に着いたときには、ガスの中。それは翌日になっても回復しなかった。
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芥子の花
■野洲市南桜。農道の脇に咲いている芥子の花です。ところどころにぽつぽつと咲いています。あとの蕾はまだこれから咲くのでしょうが、その花はこうして、ぽつりぽつりと咲くのが似合っています。たくさん咲きすぎると絵になりにくいでしょう。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
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004.白馬岳・1-------
翌昭和31年夏、白馬岳。まずこの写真2枚。左の写真はなんとか列車の車内だということは分かる。網棚に得体の知れないものが押し上げられ、天井からも意味不明のモノがぶら下がっている。
大阪から東海道線、中央線、大糸南線を経由して信濃森上まで行く準急の車内である。京都からでは乗れないというので、いったん大阪まで出て、そこで何時間か待つ。発車の何十分か前になると、駅員が来て、列を100人ずつぐらいに区切っていく。最初のグループは前から1両目、次は2両目・・・。1両目が全部座れるわけではない。1両目の最後でちょん着られたヤツは絶対に座れない。それよりあとに来て2両目のトップに区切られた人間が楽々座れる。そういうけったいなシステムだったが、誰もモンクはいわなかった。改札を通れば、ザックを背中に、あの階段を駆け上るのである。
この写真の意味は絶対に分からないだろう。真ん中で白いシャツを着て寝ているところが、列車の通路である。列車に乗るが早いか、新聞紙を敷いて寝てしまう。人が通ろうと通ろまいとお構いなし。通ろうと思えば、またいでいくしか方法はない。足は座席の下へ伸びてくる。座席にありついても、足を床におろすことができない。前のシートへのせるしか手はない。結局乗ったが最後そのまま終点まで我慢するだけ。左上に見えている肩は、それでもとにかく座席にありついた幸せな男。腕時計の手は、通路の手前で座っている男。右上から出ている腕か膝か分からないのがあるし、中央に手が1本見えるが、これがどこからでてきているのか不明。これは誰の手ヤ!。もちろん男性だけではないのだから、恐ろしいものだった。
C62,EF58,D51,C56、C12、 当時のメモである。C62といいうのは、大阪から米原までの蒸気機関車。そこから電気機関車に変わってEF58で名古屋まで。中央線は貨物用のD51。松本から信濃大町までがC56。左の写真はそこから終着の信濃森上までを牽いたC12である。身動きもできない車内から、機関車の種類を確かめる。ご苦労なこと。我ながら頭が下がる。しかし、そんなこと調べて何になるの。早い話がアホやね。
そして信濃四谷。いまの「白馬」である。その白馬を「ハクバ」を呼ばす非文化性についてのボヤキは、音楽夜話「山小屋の灯」で述べたので、ここでは割愛する。いずれにしても、昨日の午後京都を発って、大阪へ出て、そこから一晩列車に揺られて、今朝、やっとたどり着いたところである。
・・・信濃四谷駅前。この涙ぐましい人たち。この人たちが、戦後の日本を支え・・・いま、後期高齢者目前。やがては末期高齢者となる。祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。いまでも夏山シーズン、スキーシーズンにはこのような風景が見られるのだろうか。列車からはき出された人間が、難民よろしくバスの殺到するのである。何人いるのだろうか。大阪からの準急が何両編成だったのか、それが分かれば概算できるのだが、残念ながら記録にない。しょうもない機関車の種類はどうでもええのや。肝心のこと記録しとかんかい。ヘイすんまへん。それにしても、凄いバスやね。これに乗るの?
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紫色のすだれ
■野洲市南桜。農道の脇に咲いている藤色をした細い花です。花音痴の私には名前が分かりません。紫色のすだれ、そんな感じがします。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
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003.焼岳-------
いま、焼岳はどうなっているのだろうか。当時は登山の入門コースとして、もっともポピュラーな山だった。釣鐘を伏せたようだとの説明で、トロイデ式火山の代表として、中学校の教科書にも出てきた。いわゆる活火山に登るのは、高校の修学旅行の阿蘇山以来2回目というので、張り切っていた。上の写真は、梓川の右岸を登山口に向かう途中で撮ったもの。天気もよく、夏とは思えない雲が薄くたなびいていた。最初の時というのは、見なそうかも知れないが、全く事情が分からない。ハイキング気分である。歩き方一つにしても、速く歩けばいいぐらいのもの、短距離ランナーのペースでマラソンを走るようなものである。すぐにダウンしてしまって、そこらに落ちている木の端くれを拾って、杖をつきつきふーふーはーはー、何とも情けない登山だった。
途中に水場があるから、そこで水筒に水を入れればいい。ところが、水場にたどり着いたら、かれてからから。ということで出発から、焼岳小屋につくまで、一滴の水もなし。淡い記憶によると、小屋は9合目あたりにあった。そこから上は山頂までクマザサの中に枯死した木が立ってい、一種独特の雰囲気だった。
さてこの2枚の写真。多分同行したHクンが撮ったのだと思う。アルバムに貼ってあって、誰が撮ったとの記録がない。しかし、初めてカメラを持った私が撮った写真ではない。
上の写真、右手の木は完全な逆光である。ところが下の写真は右から光が当たっている。それを見
ると自ずからカメラの向きが分かる。上の写真より90度左へ振ったのが下である。すなわち、90度違いで、右は秋を思わす、穏やかな雲、左は黙々とした夏の入道雲。しかしそれは、いま改めて2枚の写真を比べてみて、初めていえること。そのときは雲の状態などくそ食らえ。頂上目指して歩くだけだった。Wikipediaによれば、----焼岳は、飛騨山脈の中では最も活動の激しい活火山である。北峰、南峰(主峰)の2峰があるが、現在登山可能なのは北峰だけで南峰へは立ち入り禁止となっている。北峰と南峰の間には火山湖がある。----いまは登山規制があるらしいが、私が上ったときには、何の規制もなく、火口湖へも下りられた。珍しいもの見たさにそこまで下りて、火口湖の水に手をつけたり、河口を覗いたり遊んでいた。
周りは火口壁、すり鉢の底にいるようなものだから、真上しか見えない。ふとあたりが暗くなってきたのに気づいたときには、上空一面の暗雲だった。これはえらいこっちゃ。先程の入道雲や。左の写真は山頂から見下ろす火口湖である。ここへついたときにはこのように晴れていた。それが、下からはい上がったときは、土砂降りの雨だった。ほうほうのていで小屋までとって返し、そこで雨宿り。しかし、その雨は容易に止まなかった。びしょぬれのままキャンプ場までたどり着いたときには、あたりが薄暗くなりかけていた。
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田植えのころ
■湖南市正福寺。野洲川右岸に国道1号バイパスが開通しました。片側1車線の暫定供用だけれども、のどかだった田園地帯の雰囲気が変わりだします。その道路の横で、いまは田植えの準備ですが、いつかは風景が変わっていくことでしょう。カメラのすぐ横はバイパスです。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
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002.いざ上高地へ-------
目的地は上高地だったのだが、行きがけの駄賃で、美ヶ原へ寄ったことは、音楽夜話「アルプスの牧場」のところで話をしたので割愛する。その美ヶ原から帰ってきて、再び松本駅。そういえば、そのころまだ駅前から浅間温泉行きの電車が出ていたが、残念ながらその写真はない。上の写真は、松本電鉄のホーム。当時のメモでは、2両連結だが総括制御ができず、前と後ろに運転手が乗って、お互いベルで合図しあいながらそれぞれがそれぞれの車両を制御する。100mの所要時間が15秒。短距離なら走った方が速いとある。
島々でバスに乗り換え、梓川渓谷へ分け入る。山頭火の俳句に「分け入っても分け入っても青い山」というのがあるが、こちらは「分け入っても分け入っても細い道」である。小さなトンネルと吊り橋。右に見えている砂利道がバス道である。ここをもうもうと砂煙を上げていくのである。アメリカ兵が「日本の道は道路ではない。道路予定地だ」といったというが、まさにその通り。いまのわれわれが見ても、これがバス道だとはとうてい思えない。
それにしても、このスノーシェルターはどうだ。こんな下ををくぐるの?。息を殺して一目散。いくら大丈夫といわれても、いまなら手前でおろしてくれと叫びたくなるところ。ここを定期バスが運行するとなれば、社会問題間違いなしというところだろう。それにしても、この路肩で、離合はどうするの?、それそれ、それが大変。窓から外を見ていると、渓谷の上に体が出ているような錯覚を持った。とにかく神業というか、芸術的というか・・・。大した事故もなく運行していたのだから恐れ入る。
これは人から聞いた話だから、話半分として読んでいただきたい。路肩がコンクリートで補強されているところがあった。それはいい。そこで前を行くバスが例の神業離合をやった。それを後ろから見ていたら、ダブルの後輪の外側のタイヤが路肩からはずれて宙に浮いていたという。もちろん路肩の外は千尋の谷である。ガードレールはなかったの?。それはいまの人がいうこと。そんなものあるはずネエでしょうが。
車内の冷房など考えられない時代だから、窓はすべて解放のまま。前車の後塵を拝せばこれは地獄。沢渡ではエンジン冷却のためと称して大休止。売店の前に猿がつながれていて、愛嬌を振りまいていた。釜トンネルでは絶対に窓から首を出すな。・・・さすがここで、首を出すやつはいなかった。首を出せば生きて帰れる保証はない。車内はしんと静まりかえっていた。
河童橋の上流の小梨平がキャンプ場になっていた。五千尺旅館の横の方に事務所があって、申し込むと「はい、何番のテント」と指定をしてくれた。そして迎えた上高地の朝。左は赤外線写真による穂高である。赤外線は赤よりさらに波長が長い。そのため空気中のちりやほこりに影響されにくく遠くまで届く。そんな特性をいかして、陸地測量の航空写真等に使われていた。赤のフィルターを使って撮影するのだが、このように緑の木の葉は、新緑のように白く写った。一見樹氷のように見えるのは、緑の葉っぱである。
当然青空は黒く写り、山襞なども、太陽が当たる当たらないで、くっきりと立体的に写り、山岳写真ではよく使われていた。赤外線の波長が可視光線より長いため、ピント位置が少しずれる。その調節が面倒だったが、露出は風景の明暗とは無関係に、一定の値が指定されており、露出に苦労した当時としては、逆にありがたかった。その露出値は、しっかり覚え込んでいたはずだが、いまは思い出せない。
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