世界地球市民の森・2
■守山市水保町。ここのところ一連の、世界地球市民の森から。夏草が縦に並ぶ向こうに三上山が見えた。公園は未完成であるが、私としては、この未完成さがありがたい。昨年の「ふるさと富士サミット」で講演した■「谷文晁のスケッチポイント」のすぐ近くである。
■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
111.残雪の西穂高・3
西穂山荘付近。
「もうこれ以上は行けません」とい言い出した女性軍はテコでも動かなかった。しかし、ここまで来て、ここから帰るてはないやろ。「エエぞ、エエぞ。ここで止めるのは、ごちそうを前にして食べへんのと一緒やで」となだめすかして、ハイマツ地帯へ足を伸ばす。
ほら、見てみ。こんなスゴイ風景が見えるんやで。山荘でくすぶってたらこれは見えん。来てよかったやろ。右の丸い山が焼岳。左奥の裾を広げたなだらかな山が乗鞍岳。どっちも火山。焼岳は鐘状火山(トロイデ)。溶岩は粘性が強くて、ぐにゅとー出てきて、周囲にはあまり広がらなかった。乗鞍岳の溶岩は粘性が低くて、なだらかに周囲広がっていった。溶岩の種類によって、できる山の形が変わる。
と、中学の教科書に書いてある。
笠ヶ岳。いま西穂ロープウエーに乗ったら、すぐ目の前に見える山である。上の写真の撮影位置で、90度右を向いたところである。このときは、生まれて始めてみた残雪の山に目がくらんで、ご機嫌で撮っていたが、いま見てみると単純なつまらん写真である。二眼レフのマミヤC3で伏見の町並みを撮っていたことは、いつか書いた。詳しい事情はいずれ書くつもりだが、このころは京都の鴨川に熱中していた。それにはどうしても長いレンズが必要だった。マミヤC3はレンズ交換ができたが、いかんせん二眼レフである。長さに限界がある。ということで、ミノルタSTR101という一眼レフを買い、28mmと100mmのレンズを手に入れていた。これはそのうちの100mmで撮ったものである。西穂へ行って来ました。笠が見えました。残雪が豊かでした。・・・というだけの写真である。
同じ地点で、さらに90度右を向いた。西穂山荘の少し上の地点から西穂高の方を向いたもの。これは28mm。一番手前の岩が中途半端だが、写真としては100mmよりは面白い。撮影した位置が低いため、西穂のピラミッドが最高峰に見える。
そして、前穂。上の写真から、さらに右を向いたことになる。
手前の斜面をアップ。ちょっと長いレンズを持たせてもらって、いままでにできなかったこんなアップが楽しかった。
これはどんなレンズで撮ったのか、いまとなっては確かめるすべがないが、笠ヶ岳から抜戸に続く稜線である。双六からやってきて、この稜線に登り切ってから、笠ヶ岳(左端、一番高い峰)までの縦走は楽しかった。ここから見るのと立場が逆になるわけで、槍・穂高連峰が眼前に連なるのである。緩やかにアップダウンを繰り返す縦走路はまさに天国だった。しかし、いつまでもそんな昔を回想しているヒマはない。これから山を下りて、今日中に帰り着かなければならないのだから。
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■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
世界地球市民の森から
■守山市水保町。昨日・一昨日と見ていただいた、世界地球市民の森から。あずまやそのものは完成しているが、周囲は未完成。手前の水は、一応理屈の上からは、旧野洲川南流れのあとと言うことになるのだろうが、元の流れそのものではなさそうである。昨年の「ふるさと富士サミット」で講演した■「谷文晁のスケッチポイント」のすぐ近くである。
■ 穂高から三上山まで
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110.残雪の西穂高・2
上高地から西穂山荘までの登り。
最初は樹間所々にわずかに見える程度だったが、登るにしたがって、一面の雪となる。雪の上に木の陰が落ちる。ブリューゲルの絵のごとし。
森林芸界近く、あくまで青い空に、まだ芽吹いていない岳樺(ダケカンバ)の白い木肌が印象的。白樺は、中部山岳地帯では、だいたい標高1500mぐらいを中心に分布している。だから、上高地周辺では、白樺が最も多い。それに対してダケカンバは、2000mを越える森林限界近くに生えている。その多くは、雪の重みをうけて、下の写真のように、押し曲げられている。それでも上へ向かって伸びようとするこの生命力のすごさ。
何年か前、3月に来たときは、反対側の蒲田川沿いから登ったのだが、あのときは膝まで、場所によっては越まで隠れる雪だった。それに比べるとこのときは雪がしっかりしまっており楽だった。豊かな残雪に、木の間を通りくる光が映える。静かな山道に交錯する光と影。
木の間から残雪豊かな笠ヶ岳から抜戸につづく稜線が見える。おそらく雷鳥の天国だろう。
8時50分、西穂高山荘着。バスプールから3時間20分。それまで息も弾まず、あせもでないのだから楽な山。しかし、それはこちらの話。同行の女性軍は、「もうこれ以上は行けません」という。考えてみればそれも当たりまえの話。彼女らは生まれて初めての山である。かく申す私も、一昔以上も前、初めてここへ来たときには、ばてばての大バテだった。初めての山て、そう簡単ではないわな。ましてや、昨夜は夜行。それも夜の夜中に乗り換えというアホみたいな強行軍。■むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
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旧野洲川堤防から
■守山市水保町。昨日、世界地球市民の森の三上山に向かう橋を見ていただいたが、。その橋から100mほど北へ行ったところ。旧野洲川の堤防あとが整備されて、公園になっている。堤防の高さは、かつての天井川をそのまま示していて、民家の2階近くまである。昨年の「ふるさと富士サミット」で講演した■「谷文晁のスケッチポイント」のすぐ近くである。
■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
109.残雪の西穂高・1
昭和44(1969)年5月31日
この日は土曜日。普通の仕事をして風に家へ帰り、ゆっくり夕食を食べて、9時20分、京都駅集合。昭和39(21964)年の、新幹線営業開始。これがわれわれの生活を変えた。名古屋からの夜行に乗るのに、夕食を家でゆっくりと食べられるのである。
その昔、中央線の夜行に乗るのに、昼過ぎから大阪駅へ行き、そこでいやと言うほど待たされて、乗った列車が超満員のこ路に比べると、明らかに生活スタイルが一新されていた。
このときは、夜行日帰りで、西穂高独標までというのだが、ちょっとしたハイキングぐらいの思いだった。同行は山は初めての若い女性2人。ほかに男性2人が参加予定だったが、直前に不参になった。
昨夜通過した前線のあとに、東シナ海から張り出してきた高気圧に覆われ、空気はからりと乾いてさわやか。中空にかかる満月があたかも初秋の月のようにさえる。
京都駅、22時04分、最終”こだま”で名古屋まで。23時02分、名古屋着。
中央線への乗り換えは、いったん改札口を出てくれとの掲示。夏の混雑を思い出したが、しかし、”きそ7号”はがら空き。のんびりと行く。夏場と違って、車内も静か。ディーゼルエンジンの音だけがやけにけたたましい。
午前2時10分。木曽福島定時着。名古屋からのバスの客が合流したため、バスは3台。2時45分、木曽福島発。
境峠の白樺林。いまにも沈み行く大きな白い月が樹間を走る。
バスの窓から月が見えた。何でもない風景である。しかし、手前にある白樺が後ろへ走る。結果、白樺林の向こうで、月が走っているように見えた。
峠を越えたところで、ほんのわずか明るみだした空に、影のごとくたつ穂高連峰の姿を見る。
奈川渡にかかるころから、夜が明け始める。聞きしにまさる変貌ぶり、どこをどう走っているのか、全然分からない。川をさかのぼっているとばかり思っていたのに、水はバスト同じ向きに流れている。道はトンネルまたトンネル。昔の面影全くなし。と、思って下を見ると、いまにもダムに没しようとする旧道が遙かしたに見える。
朝、5時10分、上高地着。気温0.5℃。
天気図が告げたとおり、見事な快晴である。10月なら、この時間帯は、まだ夜が明けていないが、さすが6月。焼岳が朝日をうけて、実に明るく輝いている。穂高の残雪が美しい。見上げるばかりの高い峰が、横からの光を受けて、きらりと輝きを増す。
5時半、バスプールをあとに、田代橋へ向かう。そのたもとで焼岳へ大型カメラを向けている人がいた。真正面から光を受けて何のニュアンスもないのに、不思議だった。
西穂登山口も何となく荒れた感じで、しっくり来ない。雪が解けてすぐあとで、まだその影響が残っているのだろう。例によって、少し歩いて、身体がァたたくなったところで朝食。
上高地渓谷をはさんだ対岸の山。多分、六百山から霞沢岳あたりだと思ったり、ひょっとして、左がつり尾根で、正面が前穂かなとも思う。きっちりしたメモを残していないので、よく分からない。
右側に前穂・明神が見える尾根筋へ出て、少し行くと、雪が現れ出す。よしよし、これはエエぞ。狙ったとおりや。■むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
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橋を渡って
■守山市水保町。世界地球市民の森。橋の向こうに三上山が見える。どうせ新たに橋を架けるわけだから、もうちょっと、10度弱右へ振っておけば、橋の真正面に気持ちよく三上山が見えたのに。折角建設中の公園なのに、惜しいことである。公園の設計者は、周囲の風景は見ずに、図面の上だけで、線を引いているのであろう。昨年の「ふるさと富士サミット」で講演した■「谷文晁のスケッチポイント」のすぐ近くである。
■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
108.おまけ、これで終わり
磐越西線で見たSLたち(1968年夏)・2
会津若松で途中下車。鶴ガ城跡を駆け足で見学。会津若松12時01分発、新潟行きに乗る。このたびのアホな旅も終わりに近い。
写真左、お世話になるC57。なんや、蒸気機関車か↓。落胆の声。蒸機を見るたびに写真を撮っておきながら、おのれが乗る列車がSL牽引だとわかると、「なんや、これ」。勝手なものである。見るのはいいが、牽いてくれるのはちょっと・・・、というところ。阿賀野川沿いの線路は、短いトンネルが多い。そのたびに窓の開け閉めに大わらわ。やっぱり旅行は電車がエエね・・・・。勝手にせい。
阿賀野川。現在の会津若松 - 新津間には、森と水とロマンの鉄道という愛称が付けられているという。この「水」は、阿賀野川をイメージするのだろが、実は、私たちがここを通ったとき(1968年)、すでにこの流域には、原因不明の中枢神経疾患患者が多発していた。Wikipediaによると、ことの起こりは1964年(昭和39年)だという。科学技術庁は1964年~1967年(昭和42年)までの3年間、特別研究を行って原因の究明を行った。その結果1968年(昭和43年)政府はこの原因を「昭和電工鹿瀬工場より排出されたメチル水銀による有機水銀中毒」であるとの見解を発表した。新潟水俣病(第二水俣病)である。このとき、私たちは、何も知らずに、川を眺め、トンネルのたびにせっせと窓の開け閉めを繰り返していた。
なに?この写真。誰もいないホームの写真撮って、何が面白いの?。ウン、これは写真としては確かに的はずれやな。左の列車と、右のディーゼルを一緒の撮ろうとした失敗ものや。
そんな失敗作をどうして載せるの?。
まあ、モンクいわんと、よう見てみ。右端で、おっちゃんがなんかしてるやろ。右腕伸ばして、身を挺してわっかをとろうとしている。どこの駅かわからんが、急行列車がノンストップで通過するとき、タブレットをこうして受け渡ししてたんや。
タブレットてなに?。
もうエエ、そんなこと説明してたらきりがない。
雪の晩でも、やっぱりこんなコトするの?。
もちろんや、やらにゃ列車はこの駅通過できひんのやから。
15時31分、新津着。

すぐに、向かいのホームに入ってきた大阪行きに乗る。乗り込んだ客車のすぐ横にD51が止まっていた。阿賀野川のトンネルで、辟易した蒸機だが、よそ事だとなるとはり張り切り出す。おっ!、ナメクジや・・・。
ナメクジて、あのナメクジ?気色の悪い。
そや、写真拡大してみ。この写真を見てほしかったんや。D51がごろごろしとったときでも、京都近辺にはこいつはおらなんだ。ワシ自身もこのD51見たのは、これが初めてやった。これみてほしかったから、しょうもない「おまけ」を続けてきたわけや。
ナメクジて窓から出ているこの気色の悪いもの?。
アホか、こんなでかいナメクジおるか。なんぼなんでもナメクジが腕時計ははめへんやろ。
そんなことはどうでもよろしい。普通の蒸気機関車は、上のC57のように、煙突があって、その後少し間があって、ラクダのこぶみたいなサンドボックスがついている。このD51よう見てみ、煙突からそのままサンドボックスまで続いているやろ。これがナメクジに見えた訳や。
もっとよく分かるように、横から撮っておたらよかったのにね。
そんなことやろ思ったら、またマラソンせなあかん。ダイタイ何とか筋痛めたらどないするねん。堪忍してくれや。
もうちょっとエエ?。何や。サンドボックスて「砂」の「箱」?。そや、砂の箱というたら、砂で作られた箱という意味にもなるけど、この場合は、「砂箱」かな。砂を入れる入れ物や。蒸気機関車に何で砂がいるの?。勾配区間に入ったときに、スリップせんように、レールの上に撒いたんや。走っている機関車から、誰がどうして砂まくの?・・・。お前もしつこいな・・・パイプがあって、・・・もうエエ。
砂を撒いていたのは蒸気機関車だけでなしに、電気機関車でも撒いていた。いまはどうなっているのか、勉強不足だが。


最後尾の客車はがら空きだった。あとはあなた任せで明日の朝には京都に着く。長かった旅も終わりに近い。柏崎18時48分。暮れ行く中にホームの電灯の明るさが増す。
日本海が空と一帯となって、・・・・乳色にかすみ消えていく。
がら空きだった列車が、糸魚川に着くと、大糸線からやってきた山帰りの若者で、100%ぐらいに混む。ゆっくり横になって眠っていけると思っていたのが当てはずれ。
翌朝、6時16分、京都帰着。
しょうもない「おまけ」はこれで終わり。次回から「残雪の西穂高」。
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■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
夏の夜明け・2
■栗東市出庭。昨日と同じ野洲川運動公園から見た夏の日の出。前は野洲川だが、ここのところは水がない。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
107.おまけのおまけ、もうひとつおまけ
磐越西線で見たSLたち(1968年夏)
1968年夏、全国ユネスコ大会の帰り、いろいろ遠回りをして、アホな帰り方をした。昨日のおまけ「中山宿スイッチバック」もそのときのものだが、ついでに撮った、秋田付近のSLたち。
C11である。遠くにいたものを無理に伸ばしたらしくて、ピントが甘い。当然こんなものは没にするべきなのだが、なんせ、タンク機関車への思いが強い。少々のことなら、無理しても・・・ということでゴメンナサイ。
?・・・・ようけ、おるな。これは何や。
いやいや、しょうもないことをして申し訳ない。8600を真横から撮ったものがあったので、それをたくさん焼いて、並べて切ったもの。
ヒマやったんだね。同じやるなら、手前のレールをきっちり一直線につないでほしいね。


秋田、21時36分発、臨時急行”第三おが”。C57(写真左)が牽く。耳をつんざく汽笛の音。ブラスとの響き。煙のにおい。長い間お目にかかっていないものだった。郡山(写真左)、午前6時31分着。


郡山にいた磐越東線用蒸機D60。1D1(前輪が1軸、動輪4軸、後輪1軸)のD50という機関車があったが、後輪を2軸として、車輪数を1軸増やして、1軸あたりのレールへの負担を小さくし、走行可能路線を拡大したものという。
会津若松にいたC12。これもご覧のようにタンク機関車。上に出ているC11に似ているが、C11の車輪配置が1C2なのに対し、これは1C1でさらに一回り小さい。このように構内の列車入れ替えなどに、小回りのきく機関車だった。写真の右外は見えないから、貨車を何両牽いているのかは分からないが、見る限りでは、まさに模型の機関車である。次回、もう一回だけおまけ。その後、残雪の西穂高。
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■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
夏の夜明け・1
■栗東市出庭。野洲川運動公園から見た夏の日の出。太陽は何の予告もなしに、ヌーと昇る。冬だと、空の色が徐々に変化していき、いまかいまかと息を凝らして待つ時間があるのだが、夏はそれがない。このときも気がついたら、山の左裾にヌーと顔を出していた。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
106.おまけのおまけ
秋田付近で見たSLたち(1968年夏)
1968年夏、全国ユネスコ大会の帰り、いろいろ遠回りをして、アホな帰り方をした。昨日のおまけ「中山宿スイッチバック」もそのときのものだが、ついでに撮った、秋田付近のSLたち。
秋田駅構内。まだ電化されておらず、架線のない構内は広く見えた。このときは、田沢湖線で大曲まで、そこから奥羽本線で秋田へ出たはずだから、秋田駅へ到着直前の車内方撮ったものであろう。京都付近では、東海道線が電化されて、10年が過ぎていて、SLが珍しくなっていた。そのSLがごろごろいるのである。
乗っている列車の車内から撮るのであるから、ポジションは自由に選べない。望遠レンズなどまだまだの時代である。どんなに遠くても標準レンズ一本槍。近かけりゃ近いで全体が入らないしで大忙し。


多分、秋田駅にいたのだろう。ご存じD51。蒸気機関車の代名詞みたいなヤツで、東海道線でも貨物列車を牽いて、毎日黒い煙を吐いていた。私が勤めていた大谷高校は、東海道線から細い道一つ隔てた場所にあったから、毎日こいつを見ていた。風向きによっては、煙がグランドへ流れ込んで、野球の試合などをやってるときは、「ケムリタイム」で試合中断。やっかいなヤツだった。それもいなくなって10年もたつと、懐かしくなるのだから不思議である。
これも手前はD51である。向こうは9600。Wikipediaによると、使用開始は1913年(大正2年)、日本で初めての本格的な国産貨物列車牽引用のテンダー式蒸気機関車だという。私が、鉄道の興味を持ちだしたころには、京都近辺にはいなかったが、息の長い機関車で、九州へ行くとよく見かけた。そんなこともあってか、炭坑の周辺でよく似合う機関車だった。
タンク機関車が2台。手前はC11。向こうにいるのはよく分からないが、これも多分C11であろう。炭水車をつける代わりに、機関車本体の後部に石炭を積み、両サイドに水槽を持っっている。短距離区間を専門とし、力よりも小回りのよさを特徴とした。これも京都近辺ではほとんど見ることはできなかった。そんなこんなで、タンク機関車を見るとうれしかった。
8600である。1914年(大正3年)から1929年の間に687両製造された旅客用機関車の名機だという。たしか、日本初の特急列車を牽いたのが、この8600だったはず。上の9600は、京都近辺で着かけることはなかったが、8600は、C51などとともに、京都ー山科間の補機として使われていた。昭和20年代のことである。京都山科間は、京都から山科に向けて登り勾配になっている。D51が牽く貨物列車の後から後押しをするのである。見たところ、後押しをするほどの力があるとも思えなかったが、まあ、何とか役にたっていたのであろう。登りは、「やせ蒸機、負けるな一茶ここにあり」というところで、冷やかし半分で見ていたが、それ以上の忘れられないのが、単機回送の時である。山科まで後押しをしてお役ご免。バック運転で戻ってくるのである。勾配を下ってくるのだから、勝手に転がる。そのときのカタコン、カタコンという間の抜けたロッドの音が何ともいえずユーモラスだった。
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アヒルとカモ
■大津市本堅田。浮御堂の北の湖岸。2羽のアヒルとカモがよく懐いている。そばでカメラをかめていても、ほとんど逃げることはない。近所の女性がパン切れを持ってきて与えると、鳥たちが食べるより先に水中からブラックバスが現れて、かっさらってしまう。その魚どうしの奪い合いに鳥たちは怖じ気づいて逃げてしまう。■ 穂高から三上山まで
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105.おまけ
ここにもあったスイッチバック / 磐越西線・中山宿
1968年夏、全国ユネスコ大会なるものが、秋田県の田沢湖高原で開かれた。何がどうなったのか忘れたが、私に生徒を引率してそれに参加してくれないかという。聞けば、秋田駒ヶ岳の麓で・・・という。そんなところならと、二つ返事で引き受けた。何日間かの大会が終了して現地解散。
生徒たちが、折角こんなところまで来ているのだから、方々回って帰りませんかという。秋田から男鹿半島を一巡りして、竿灯祭りの夜に秋田発。奥羽本線経由で福島へ。東北本線で郡山へ。磐越西線で新津へ。そこから信越本線、北陸本線経由で米原へというアホなことをやった。
米沢を過ぎたあたりで、夜が白み始める。これから板谷越えだが、前に見ているからエエかと、そのまま寝てしまう。急に閃光がひらめいたような気がして目が覚める。原爆じゃあるまいし・・・・。そういえばきのうは8月6日・・宿を出るときTVで原爆ドームが写っていた。
窓の外見ると、霧が雲海のようにたれ込める平野を眼前に勾配を下っているところ。その霧の上に桃色の太陽が昇る。さっき感じた閃光はこれだったのか。6時31分郡山着。
7時15分発の、磐越西線新津行き。東北本線から分かれて、左に折れると、遙か彼方に一目でそれと分かる磐梯山が現れる。
喜久田、安子け島、磐梯熱海と過ぎて、山間部に入ったところが中山宿。ここがスイッチバック駅だった。当時、板谷峠などは雑誌で喧伝され、その存在をよく知っていたが、ここにこんなスイッチバックがあるとは、不覚にも知らなかった。いまはどうなっているのかとWikipediaで調べてみた。「1997年(平成9年)3月22日 - 【改キロ】磐梯熱海 - 中山宿 - 上戸(-0.7km)(中山宿駅スイッチバック廃止に伴う)」との記事がある。10年ほど前までは、スイッチバックが使われていたことになる。現在、高速の磐越自動車道がこれと並行して走っている。2,3度通ったことがあるが、そういえば確かに勾配区間である。
郡山から来た列車は、左の地図の右端から勾配を登ってくる。そのまま左の側線へ入り、中山宿駅へ止まる。
地図Cの地点。地図の右下から登ってきて、水平な山側の側線を見ているところ。こういう水平な線と並ぶと、勾配がわかりやすい。ほう、こんな坂を上ってきたのか。でも、これ順番がおかしいね。何でCから始まるの。・・・そんなこと知るか!。誰がかいたんじゃ、こんな地図。
地図Aの地点。登ってきた列車が、本線から分かれて水平なホームへ入ろうとするところである。画面に見えているのが本線。勾配がわかりにくいが、本線が登り。側線が水平である。この本線、ホンマに登り?。下りに見えるけど。
ガチャガチャ言うな。登りや言うたら登りなんじゃ。
地図Bの地点。ホームに止まった列車内から、本線を通過していく急行を見ているところ。なんや、小屋を撮ったのと違うの?。ずぼらになったね。わかいときなら、ホームへ飛び降りてきっちり撮ったはずやけど。
ところで、急行てどこに見えるの?。わからんのか!、小屋の左の土手の上じゃ・・・。怒らんでもエエやんか。
地図Dの地点。もちろん上の急行は、勾配を登りながらこちらに近づいてくる。カメラを左へ振って、最後尾を撮ろうとしたら・・・。なんや!この木は。けったいなところに木植えるな。バチが当たるぞ。おかげで、電車撮ってるのに、木撮ったように見えるやなかいか。ワシは怒ってるのやぞ。星野JAPANが負けて。
だから言ったじゃないの。無精せずにホームへ降りて撮ったらよかったのよ。星野さんかて負けることもあるの。それより、新井さん早よ帰ってきて。
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森の向こうに
■守山市川田町。神社の杜の向こうに三上山が見える。森までの間にしっかりした道路が1本通っているのだが、幸いなことに、その道路に電柱が立っていない。それに電柱が立つと、この風景は死んでしまう。■ 穂高から三上山まで
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104.立山(1967年8月)・4
昭和42(1967)年08月28日(月)・2


12時半、歩き出す。ガスが少し晴れて、雄山や真砂岳が見え出す。雨の心配は当分なさそう。途中、雪渓で遊んだりする。
室堂は黒四へ通すトンネル工事中。どこかの工場の横を歩いている感あり。セメント工場が麓にある伊吹とよく似た雰囲気。幅2mほどに整備された登山道を登る。


13時50分、一の越着。ガスがまいて、風強く、寒い。すぐに小屋へ入る。こうなると時間をもてあます。悪天候の山小屋ほど退屈なものはない。
5時半、夕食。6時過ぎ、布団敷いて、それに潜り込む。
その昔のように、何時間も歩き、小屋に泊まり、また何時間も歩く訳ではない。たった1時間ほど歩いただけである。何の緊張感もない。こんな山で、ちょうどいいなと思っているのだから、我ながら堕落したなと思う。
風が強く、窓がガタガタ鳴る。こんな悪天候の山は何年ぶりだろう。・・・でも、ヨーロッパアルプスのオヤジの長説教を聞くよりはましかと・・・考えているうちに眠ってしまった。
昭和42(1967)年08月29日(火)
朝、5時ごろ目が覚める。風が相変わらず強く、ガスが巻いて何も見えない。頂上まで行くのは無理。
6時、朝食。6時半に小屋を出る。雨はますます激しく降ってくる。ガスも強く、まともに顔が上げられない。もう下るしかない。これは「ヨーロッパアルプス」のたたりやで。あの小学生らかわいそうやな。どないしとるやろ。
7時3分、室堂に着く。雨具が不完全な生徒は、下着までずくずく。待合室で着替え。7時35分のバスで下山。8時55分のケーブルに乗りついて、9時28分発の電車に乗る。ここまでくると暑い。難儀なもの。下に着ていたものを脱ぐ。雨激し。
富山駅。国鉄の掲示板に曰く。「新潟地方水害のため、特急”白鳥”は富山で運転打ち切り」と。
時刻表を見ると、次は急行”きたぐに”。・・・・放送があって、急行”きたぐに”は、本来は新潟発だが、本日に限り当駅始発2両で運転します、という。・・・当駅始発は結構やけど、2両とは、なんやね・・・と、ぼやいていたら、その2両は福井までです。・・・なにイイイイ?。
けったいな話しやけど、こんなとこでぼやぼやしとったら、どないなるかわからんし、とにかく福井までイコか。
12時06分、2両の”きたぐに”で富山発。何とか座れる。
金沢で、輪島から来た”奥能登”をうしろに併結。14時37分、福井着。・・・富山から来た前2両はここで切り離します。そのあと、うしろに2等6両、1等2両をつなぎます。おかげでわれわれは、ホームをマラソン。これで正規の編成となって、17時17分、京都帰着。
帰宅して、新聞を読んで驚いた。新潟・山形地方は、死者多数を出す水害であった。そのため、前日の急行”きたぐに”は、福井で運転を打ち切ったという。きょう福井から運転された車両は、一晩福井で寝ていたものらしかった。それにしても、国鉄さん、よう2両の”きたぐに”を出してくれました。
天気図を見ると、前線は相変わらず北陸地方の上にあった。
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