栗原から
■大津市(旧志賀町)栗原からです。昨日ご覧いただいた和邇港のすこし北を喜撰川という小さな川が流れています。栗原はその喜撰川の上流に位置します。比良山系の最南端ということになるのでしょうか。このような段々畑が続いています。琵琶湖が少し見えますが、琵琶湖大橋はこの画面の右外に当たります。■むかし語り音楽夜話
--------わたしの名曲迷選(軍歌からベートーベンまで)--------
40.お富さん-------粋な黒塀 見越しの松に-------
作詩 山崎 正 作曲 渡久地政信 昭和29年
粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の 洗い髪
死んだ筈だよ お富さん
生きていたとは お釈迦さまでも
知らぬ仏の お富さん
エーサオー 玄治店(げんやだな)
今までこの「むかし語り・・・」を読んでくださった方で、なんでここで『お富さん』なんのか?と首を傾げてくださる方が一人でもおられたら、私はうれしい。
昨日書いたように、昭和30年、生まれて初めて長野県へ足を踏み入れた。と同時に自分のカメラで写真を撮るということを経験した。持って回ったいい方になってしまった。要するに、この山行きの前にカメラを買ったのである。大谷高校から、理科助手としていただく月々のアルバイト代が5000円。買ったカメラがアルコ35というカメラで、定価27,000円余。実際の価格が25,000円なにがしかであった。当時のカメラがいかに高価なものであったかがおわかりいただけよう。
モノクロームのフィルムは、ASA100のSSが出て少したったころだったか。ネガフィルムはなく、今でいうリバーサルフィルムが、「SAKURA COLOR」、「FUJI COLOR」という名称で発売されていた。ダイレクトプリントなどは想像外、撮った写真はスライドで見るしか方法はなかった。コダックだけは、「コダクローム」、というように、「・・・クローム」で呼ばれていたが、「サクラ」やFuji」は「・・・COLOR」と今でいうネガカラーの名称で呼ばれていた。コダックの現像所が日本になく、ハワイまで送らねばならなかった。船便で送ると、戻ってくるまで一ヶ月ほどかかった。そんな時代の話である。
大学の写真部に入っていた友人のHが、写真の基本は、フィルム現像、これをやらんと意味がないという。失敗したらどないしょうと恐ろしかったが、怖がっていても意味がない。いっちょうやってやろうと、学校の暗室に潜り込んだ。有名な京都の8月である。冷房のない暗室で、どうして仕事をしたのか。今では想像もできないが、とにかく現像はできた。あとはそれを楽しみながら焼けばいい。といっても暑いものはあつい。フィルム現像は、1本あたり10分あまり、それが終われば、外へ出られるが、プリントとなるとそうはいかない。2時間3時間はざら。これは昼間の仕事ではない。夜、暗室のドアーを開け放してやることにした。
京都では戦後、昭和22年ぐらいから、各町内会が競って盆踊りをやり出した。それが昭和30年前後まで続いただろうか。当時、日が暮れてから家路につくと、2カ所、3カ所と盆踊りに出くわした。使われる曲は、最初のころは「みずほ踊り」といったものだったが、昭和30年にきて爆発的に『お富さん』にかわった。開け放した暗室のドアーから、遠く近くその「粋な黒塀 見越しの松に・・・・」が聞こえてきた。
このレコードの発売が昭和29年である。たしか、昭和27年の『赤いランプの終列車』が春日八郎の初ヒットだったと記憶する。とびきりの名曲だとは思わないが、まあそれなりの歌だった。しかし、この「死んだはずだよ お富さん・・・」はいやだった。歌舞伎から題材をとったという歌詞は、素人にはちんぷんかんぷん。曲も体質に合わない。それが写真焼き付けの伴奏として、毎晩のごとく聞こえてくるのである。これには参った。
光はカーテンなり何なりの遮蔽物でシャットアウトできるが、音はそうは行かない。いやな音楽を聴かされるのは拷問に等しい。今このいやな曲を、「知らぬ仏のお富さん・・・」とすんなり歌えるのは、あの苦しかった夏の夜の拷問の代償である。空気は通すが、音は通さないカーテンを発明して、お富さんのハナをあかしてやろうと密かに研究中である。(お前にそんなことができるか。アホか。)・・・・へイ、すんまへん。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP


