南桜から
■野洲市南桜から。一面の枯れ田。農道の片隅に去年の枯れ草が残っています。一気に芽を吹き出すのは、もうすぐです。むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■むかし語り音楽夜話
--------わたしの名曲迷選(軍歌からベートーベンまで)--------
52.海行かば-------海行かば 水漬(みづ)くかばね-------
作詞:大伴家持 作曲:信時 潔 昭和12年
海行(ゆ)かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草むすかばね
大君の 辺(へ)にこそ死なめ
かえりみはせじ
去る3月15日、京都の大谷ホールで、アンサンブル「サンギーティ」演奏会があった。サンギーティとはサンスクリット語やパーリ語で「一緒に歌い会わせる」という意味だそうだが、仏教賛歌、日本の抒情歌、混声合唱のための唱歌メドレーと楽しい内容だった。
すべてのプログラムが終わってアンコール。指揮者のWさんが曲を紹介された。「みほとけは」。大谷高校での宗教行事でよく歌われた曲だった。「この曲は信時潔の作曲で、昭和22年の作です」。ふーんそうなのかと聞いていたが、続く言葉にあっと思った。そうだったのか。「じつは信時先生は、あの”海行かば”を作曲された方です」。
少なくともあの戦時下を生きた日本人で、「海行かば」を知らない人はいない。Wikipediaによれば、昭和12年、国民精神強調週間が制定された際、そのテーマ曲としてNHKが信時に嘱託して完成されたものだという。最初は出征兵士を送る歌として使われていたが、やがてそれが学徒出陣にまで及び、戦争末期には、玉砕を報ずる番組導入部のテーマ音楽として用いられようになる。
信時潔はこのことに苦しむ。以後作曲のペンを取らなかった信時が、戦後初めて作った曲がこの「みほとけは」だったという。
みほとけは
作詞:仲野良一 作曲:信時 潔
1,みほとけは
まなこをとじて み名よべば
さやかにいます わがまえに
さやかにいます わがまえに
聞いていただいたとおり、この2曲、何ほどの差があるとも思えない。「海行かば」の作曲動機に多少の違和感を感じるとはいえ、歌詞を見なければ、ともに落ち着いたいい曲である。芸術作品も使われ方によって、とんでもない方向へ一人歩きする、恐ろしい例である。
むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
水口から
■甲賀市水口町スポーツの森。水口市街から、国道307号が野洲川を渡って、貴生川に向かいます。川を渡り、上り坂で峠へ向かうまで右側に水口スポーツの森があります。小高い丘でそこに登ると三上山が見えます。空気が鮮明だと、遠くに比良山が望めますが、この日はあいにく・・・。むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■むかし語り音楽夜話
--------わたしの名曲迷選(軍歌からベートーベンまで)--------
51.あの丘越えて-------山の牧場の お昼どき-------
作詞:菊田一夫 作曲:万城目正 昭和26年
1.山の牧場の 夕暮に
雁が飛んでる ただ一羽
私もひとり ただひとり
あおの背中に 目を覚まし
イヤッホー イヤッホー
時代は少し前後する。このとき私は高校3年生だった。鶴田浩二と美空ひばりが主演をした、同名の映画の主題歌だった。高校生には最後の「イヤッホー イヤッホー」が人気だった。同級生のSという男が、体育の授業中にイヤッホー イヤッホーをやってどやされていたのを思い出す。
私は、この映画を家の近くの伏見の映画館で見た。なぜそんなことまで憶えているのかというと、映画の中のひばりの歌を聞いて、ああこれだと思った記憶があるからである。というのは、伏見の映画館へは、封切館に比べて、2~3週間、ものによっては1ヶ月近く遅れてやってくるのが普通だった。だから、歌がはやりだしてから間が抜けたころに映画がやってくるのである。このときもそれだった。
映画そのものは、少女ひばりの家庭教師・鶴田浩二へ淡い恋心で何がどうということのないものだった。しかしその中で見た風景は深く心に残った。閑かな山間の水面に枯死した木が立っていた。いまならどうということのない有名な大正池である。しかしそのころの私にとって、大正池はおろか、上高地すら写真ででも見たことのない、未知の風景だった。どこだろう。その思いが深く残った。
昭和29年夏、友人のHがコダクロームで撮ってきた大正池の写真を見て、ここだと思った。「あの丘越えて」はモノクロだったが、間違いなくこの風景だった。翌30年、生まれて初めて美ヶ原へ行ったことは、「アルプスの牧場」の項で触れた。その帰り、というより、美ヶ原がついでで、こちらがメインだったのだが、上高地へ行った。梓川にダムも何もなかったころ、島々からの道はまだ地道で、バスはもうもうたる砂塵を巻き上げてあえいでいた。沢渡でエンジン冷却を理由に30分ほど止まった。道路脇の茶店の前で、小猿が1匹ひもにつながれて、愛嬌を振りまいていた。
むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
栗東市出庭から
■栗東市出庭、野洲川運動公園から見たところです。対岸の工場が白く目障りです。公有交戦状態のときに、写真を撮ってはいけませんよという悪い教科書です。撮って開き直るわけではありませんが、これは山のはっきりした形がほしくて撮ったものです。8月終わりから9がつ初めにかけてだと、三上山の右斜面から太陽が昇ります。そのときには、工場は影になって見えなくなります。むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■むかし語り音楽夜話
--------わたしの名曲迷選(軍歌からベートーベンまで)--------
50.永久針
来る日も来る日も一枚看板の「新世界」を繰り返し、繰り返し聞いた。
そうして、10日も経ったころだったろうか。・・・・?。どうもおかしい。・・・腹具合ではない。それなら正露丸を飲めばなおる。・・・音がおかしいのである。もちろん5球スーパーの増幅段へ放り込んだだけの音だから、そして、貧乏人のひがみではないが、クリスタルだから。そんなりっぱな音でないことは初めから分かっている。そういう話ではない。明らかに音が変化したのである。
少なくとも、その家宝を家へ持って帰って初めてかけた音に比べて、明らかに音が変化しているのである。その予兆は数日前から感じてはいた。なんとなく音がおかしいなと。しかし、それは慣れであろうと思っていた。聞き慣れたことによって、感動が薄らいだのだろうぐらいに思っていた。ところがそうではない。明らかに音が崩れてきているのである。
ラジオがおかしくなったのではないか。例の5球スーパーを疑ってみた。しかし、放送に切り替えるとちゃんと普通の音で鳴る。となると、問題はラジオへ入るまでの話である。プレーヤー以外に考えられなかった。しかしプレーヤーなんてのは単純な構造で、いたむようなところはどこにもない。考えられるのは針だけである。
当時、LPレコードで使う針は、「永久針」と呼ばれていた。レコードプレーヤーに、サファイア針とダイヤ針の2種類があったことは先日述べた。それらを総称しての「永久針」であった。指を折って数えてみた。何日使ったか。ものの10日そこそこである。10日が永久やったらワシはこれから永久の何倍生きんならんのや。
ぼやいていても仕方がない。音は明らかにおかしい。針がおかしいとしか考えられない。寺町へ行って、こうこうしかじかで音がおかしいんやけど・・・。「針ですな」。・・・簡単にいうな。ワシは死ぬほど考えたんやぞ。・・・「ハイこれ」。・・・それならそうと初めからいえ、とはいわなかったが、この調子で聞いとったら破産するな。帰りの電車の中は憂鬱だった。
SP時代には鋼鉄針、戦時体制になってからは代用品の竹針が使われて、竹の方がレコードにはいいのだとやせ我慢をはった時代もあったらしいが、片面3分ほどで針を交換しなければならなかった。3分に比べりゃ10日は永久か。
子どものころ鋼鉄針の先を見せてもらったことがある。使用前にはなめらかに丸みを持っていた先端が、使用後にはナイフの先のように鋭く削られていた。そのときのことが鮮明に思い出された。来る日も来る日もレコードこすっとりゃ、サファイヤも摩耗するわな。それにしても、メーカーの宣伝通り、永久を本当の永久だと信じた自分がばからしかった。
そう、世の中は諸行無常です。すべては移り変わるのです。永久なんてものはありません。・・・さっすがお釈迦さん、あんたは2000何百年前に、このことをちゃんと見抜いとったんやね。
むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
南桜から・2
■野洲市南桜からです。南桜といってもおわかりになりにくいかとも思いますが、簡単にいえば、三上山の南山麓です。そこに何カ所か家庭菜園が散在していています。それらをハシゴしながら、梅の花を撮り歩きました。この時期、午後3時頃から太陽が半逆光になり、暗くなった山陰に花が浮き上がってきます。■むかし語り音楽夜話
--------わたしの名曲迷選(軍歌からベートーベンまで)--------
49.交響曲「新世界より」------ドボルザーク-----
とにもかくにもプレーヤーはできた。いくらプレーヤーがあっても、レコードがなければ音は出ない。しかしこれが難物だった。1枚2,300円。給料が手取りで10,000円なかった時代である。誰が歌ったのか忘れたが、「13,800円」という歌があった。確か、大学出のサラリーマンの初任給を歌った歌だったが、それだけ貰えたらエエやんけと話し合った記憶がある。給料の5分の1,いや4分の1のレコードをどうして買えばいいのか。先輩のAさんが、ワシの行きつけの店なら、「金払わんでもレコードくれるから」と河原町のS屋へ連れて行ってくれた。金払わんでもといってもただけくれるわけではない。「あんたら月給取りには1枚2,300円は痛いやろ。というて買うてもらえなんだら、うちも商売にならん。あるとき払いでエエさかい持っていき」。これはうかうかしていたら、ナントカ地獄に陥ちこんでしまう。大変な"事業"に足をつっこんでしまったと後悔したが後の祭りだった。そのとき、いくら払ったか忘れたが、とにかくLPなるものを、大事に抱えるようにして持って返った。ドボルザークの「新世界より」だった。
これが我が家の家宝になった。なんせ、イザナギノミコトの神代以来、初めて我が家にレコードなるものが入ったんだから。もちろん、クーラーもなかったし、電話もなかった、テレビもなかった。洗濯機はあったかなかったか。そんな時代の1枚2,300円である。その家宝を毎夜恭しく押し頂いて、何回きいたことか。レコードの傷の場所まで憶えてしまったとよく言われるが、まさにその通り。その後時代が進んでCDになったとき、LPは場所をとって困る、もうきくこともあるまいと、全部処分した。しかし、家宝を処分するわけには行かないと残しておいたのが、上の写真である。
交響曲「新世界より」、例の第2楽章の「家路」のメロディーで有名なヤツである。戦後、いつ頃までだったろう、夕方だったか夜だったか、この曲が京都の丸物百貨店の屋上から流されていたことがある。当時、伏見に住んでいたが、家の少ない郊外へ出れば、それが聞こえた。衣笠の大学でも聞こえた。ということは京都全体に聞こえたということになる。今より町全体が静かだったのだろうが、それにしても、近くできいていた人はどんな音がしていたのだろうか。
ドボルザークはややこしい。名前にしても確か、2つか3つあった。”ゲヨエテといは俺のことかとゲーテいい”という川柳があるが、ドボルザークもそれに負けない。確か、ドボルジャックとか、ドボルザックなんてのもあったような気がする。名前はともかく、さらにややこしいのが作品の番号。ジャケットを見てもらうと分かるが、SYMPHONY NO.5とある。今は確か9番かな。つい最近、「きょうは一日第9ざんまい」というFM番組で、この曲が出てきて、「何でやね」と驚いた。
番号の変更といえば、シューベルトもややこしい。「未完成」はいま何番?。もうエエで、そんなややこしい話。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
南桜から
■野洲市南桜にある家庭菜園の片隅で、夏ミカンが実っていました。その昔、山口県の萩へ行ったときも3月、武家屋敷に夏みかんが実っていました。こんな時期に実るのに、なんで夏ミカンなのか、不思議に思ったことでした。■むかし語り音楽夜話
--------わたしの名曲迷選(軍歌からベートーベンまで)--------
47.貧乏人協奏曲
16mm映画の伴奏音楽に使われた、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聞いて、感銘を受けた話を過日書いた。それはSPレコードしか知らなかった私にとって、曲そのものよりもLPレコードという音楽媒体への関心を引いた。これが我が家で聴けたら・・・・、との思いである。
SP時代、電気蓄音機、いわゆる「電蓄」と呼ばれていた機械があるにはあった。もちろん我が家にあるはずはないのだが、そんなものはなくて当然と思っていたから、ほしいとも何とも思わなかった。しかし、このLPは我が家で聞きたかった。
ものの本によると、レコードプレーヤーも組み立てられるという。モーター、ターンテーブル、アーム、カートリッジ等を電気屋へ行って買って来ればいいのだという。作業そのものはラジオより簡単だ。アンプはどうするのかといえば、5球スーパーの増幅段に放り込めは音は出るという。何度も何度も寺町へ足を運んだ。耳学問である。他の客と店員の話を横で聞いて勉強するのである。雑誌で読むより生きた話が聞けた。
鉄道少年だった私は、ターンテーブルというと、蒸気機関車を載せてぐるっと回転させるあの転写台のことを思い出したが、ここでの話は、レコードを載せる回転台のことである。それがモーターと一緒になっていて、しかるべきボードに固定すればいい。直径10インチ(25cm)と12インチ(30cm)とがある。LPは30cmだから12インチということになるが、25cmでものせられないことはない。ああそうかと安心していると、「しかし」と但し書きがあって、安物を使うとごろごろとLPの音以外の低音ノイズが出るという。ハイハイ。いつまでたっても貧乏人は苦労する。
アーム・カートリッジ、普通は先端に針がついていてピックアップとして一体となっているが、マニアはそれを2つに区別している。カートリッジとは、針で拾った音声振動を電気振動に変換する部分である。これにも、クリスタルによる圧電方式(今をときめく京セラの前進の何とかいう会社が作っていた)や、コイルの中で磁石が動くムービングマグネットMM方式や、磁界の中でコイルが動くムービングコイルMC方式などがある。コイルの中で磁石が動いても、磁界の中でコイルが動いても理屈は一緒じゃないかというと、そうだけれども、出てくるものは違うという。
そんな禅問答につきあっておる暇はない。要するに、5球スーパーにつないで音を出すにはどれを使えばええのや。それはクリスタルでないとあかん。値段もそれが一番安いという。そんなけったいな理屈があるか。高級品で出ない音が、安物で何で出るのや。また禅問答か。いやそうじゃない。音質と出力は反比例するのだという。音質が悪い安物は出力が高い。放送局ではMCを使っている。・・・・貧乏人は音質に目をつぶれいうのやな。もうええ、わかったわかった。放送局の話はするな。胸くそが悪い。
針はダイヤ針とサファイヤ針があって、当然のことながらダイヤは目が飛び出るほど高い。放送局では、・・・ダイヤやというのやろ。もうええ、放送局の話は。わかった、わかった。安月給にはサファイヤが身の丈に合っている。
費用調達はどうしたか忘れたが、とにかく25cm、サファイヤ針・クリスタルという貧乏人セットを組んだ。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
三上から
■野洲市三上の集落内にある祠です。祠の左側に工場様の建物がありますが、その手前を国道8号が通っています。あと半月ほどで後ろの木がサクラでいっぱいになり、そして、さらに一ヶ月ほどで、前の田圃が水田になります。■むかし語り音楽夜話
--------わたしの名曲迷選(軍歌からベートーベンまで)--------
47.立体音楽堂・2
----昨日の続き----
午前11時。今まで別々の音を出していたラジオが、一つに統合された。生まれて初めての何とも不思議な感覚だった。と同時に、それまで全くの劣勢でおよそものの役には立つまいと思われていた「並」が、「スーパー」に合わすように機能しだしたのである。これには驚いた。能力は違う。しかし、それが同じ目的に向かって作動しようとするとき、両者はその能力の和以上の働きをする。
当然、両方「スーパー」なら、もっと効果的な音が聞けただろうことは想像に苦しくない。しかしそれと比較しても仕方がない。「スーパー」と「並」が、いま目の前で、別々に出す音以上の音を出しているのである。それは間違いのない事実だった。音の善し悪し、音楽の出来不出来以上に、まずそのことに感動した。そのときは別に何とも思わずに聞いていたが、いま思い返してみると、大きな人生の教訓を得た思いである。
番組では、多分オーケストラ曲の何かが演奏されたはずである。しかし、その内容は何も覚えていない。いま記憶にあるのは、曲が終わったときの拍手の広がりである。左右のスピーカー間、番組のアナウンスにいう「二等辺三角形の底辺」全体からわき上がるように拍手が聞こえてきた。半世紀過ぎた今でもそのときの感動を思い出す。私のステレオ初体験は、幾何の授業と拍手の広がりだった。
■ステレオ放送というともう一つ忘れられない番組がある。この「立体音楽堂」であったのか、後の「FMステレオ」のデモ番組だったのか、記憶が混同してしまっているのだが、音の質・内容から考えると、後者であった確率が高い。
番組で紹介されたのは、つぎの3つだった。
1.走行中の列車の窓から草原に鳴く虫の声を聞く。
2.どこかの庭園の飛び石伝いに歩く下駄の音と、枝折戸を開閉する音。
3.カーネギーホールでの箏曲の演奏。
とくに1の走行中の列車から聞く秋の虫の音。これが秀逸だった。空調完備の今の列車では考えられないことだが、当時、夏の列車は窓開放、これが常識だった。その窓から聞こえてくる虫の声。それが近づき遠ざかる様子が見事にとらえたれていた。虫の声がスピーカーの間をゆっくりと動いていった。
音の様子では、列車はゆっくり走っているようではあったが、それだとしても車中から虫の声がきこえるのか。驚きだった。踏切の警報音は耳にしたことがあるが、いくら当時でも虫の声を聞いたことはなかった。よほどいいマイクを使ったのだろうと感じ入っていた。
この放送は反響が大きかったらしい。後日、制作過程が明らかになった。列車の音と、虫の音は別々に録音されたものを合成したものだったという。
まず列車にマイクを持ち込んで走行音を録る。虫の声は八ヶ岳山麓、車その他の雑音が一切ない場所を選んで録音したという。そしてミキシング、片方のチャンネルから虫の音を徐々に大きくして近づいてくる様子を表し、中央へ来たところで、今度は虫の音を反対側のチャンネルへ移し、音を小さくしていく。うんなるほど・・・。
ところがそれだけではダメだという。近づいて来て遠ざかって行く感じを表現するには音量の変化だけではなしに、ドップラー効果による音程の変化をつけなければならない。パトカーや救急車がサイレンを鳴らしながら目の前を通過するとき、音程が下がる、あの現象である。その制作談では、テープの回転数を落とした云々だったと記憶する。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
野洲川から
■守山市立入町、JR琵琶湖線鉄橋上流左岸堤防上から見たところです。河川敷はグランドゴルフ場になっています。河床に生えている木と重なって見えにくくなっていますが、右手に新幹線の鉄橋が見えます。以前木が小さかったころは、この鉄橋が全部見えて、写真としては困っていたのですが、今は絵が作りやすくなりました。この木が大きくなりすぎると、今度は増水時に問題になります。世の中、すべてがうまくいくということは少ないようです。■むかし語り音楽夜話
--------わたしの名曲迷選(軍歌からベートーベンまで)--------
46.立体音楽堂・1
昭和30年前後、NHKで「立体音楽堂」という番組があった。ものの記録によると、放送開始が1954(昭和29)年11月13日だという。第1放送と第2放送、2つの電波を使って、立体放送をしようというのである。なんとたいそうな名前を付けたものだと思うが、当時はまだステレオという言葉はなかった。いや、あったのかも知れないが、一般には使われていなかった。当時の本に、立体とは、タテ、ヨコ、タカサのあるものだから、立体放送という言葉はおかしい。いわゆる片チャンネルがモノーラルだから、2チャンネルはバイノーラルというべきだ。などという論説があったのを憶えている。
さてその「立体音楽堂」、確か、日曜日の午前11時開始だったと思う。「受信機を2つ準備し、向かって左側をNHK第1放送に、右側を第2放送に合わせた上、2つの受信機を結ぶ線分を底辺とする二等辺三角形の頂点でお聞きください。」という、幾何の授業のようなアナウンスがあって、その日のプログラムが始まるのだった。
そのころ我が家のラジオは、私が自分で組み立てた5球スーパーで、真空管・シャーシー丸出しのものだった。「5球スーパー」て何?。5級の間違いと違うのかといわれそうだが、間違いではない。「5球」は使っている真空管の数、「スーパー」というのは、買い物かごをぶら下げて、買い物をするあのスーパーではない。
スーパーとは、詳しくは「スーパーへテロダイン」。検波の仕方を示す用語で、ただ単に検波するだけでなしに、中間周波数に置き換えて検波する方式で、当時のラジオのスタンダードだった。と書いても私自身何のことかよく分かっていないのだから、これを読まれた方は分かるはずがない。とにかく京都なら寺町、大阪なら日本橋の電気屋へ行って、部品を買ってきて、配線図の通り半田付けしていけば、理屈は分からなくてもラジオは鳴った。当時の電気屋は、そういうラジオ少年で熱気にあふれていた。
そのラジオと、戦争中「中部軍情報」でお世話になって、そのまま物置でほこりをかぶっていた3球だったか4球だったか、世間ではスーパーでないという意味で、並3・並4と呼ばれていた旧式ラジオを持ってきてセットした。「スーパー」と「並」だから、その性能には如何ともしがたい差がある。こんなアンバランスではどうしようもないだろう。半分あきらめながら2つのラジオをセットした。
11時までは、当然のことながら別々の放送である。スーパーの方はきっちりと聞き取れるが、並のほうは、何か番組をやっていることは分かるが、内容までは聞き取れない。これはダメだろう、そう思いながら三角形の頂点で午前11時を待った。
この続きは、また明日。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
花緑公園から・2
■野洲市花緑公園からです。公園内の森林センター駐車場入り口あたりから見たものです。雑多な樹木が茂っていて、いまは木々の葉が落ちて梢を通して三上山が見えますが、夏場は視界が悪くなります。緑の大切さは分かるのですが、山を見るものにとっては苦労の種です。
■むかし語り音楽夜話
--------わたしの名曲迷選(軍歌からベートーベンまで)--------
45.サロマ湖の歌-----サロマ湖の 水はからいよ-------
上の「サロマ湖の歌」リンク先のmid ファイルは、私が急遽作りました。伴奏譜がなかったためメロディだけです。一応テストでは鳴っているのですが、皆さんのところでは鳴るのかどうかよく分かりません。もし鳴らなければお許しを。
作詞:中山正男 作曲:古関裕而
1,アー
サロマ湖の 水はからいよ
青く澄むとも
君知るや 君知るや
思い焦がれて 泣く女の
熱い涙が しみてるからよ
昭和29年の作だという。作曲は古関裕而、この「むかし語り」の一番最初に書いた「露営の歌」の作曲者である。いや、そんな持って回ったことを言わなくても、「鐘の鳴る丘」、「君の名は」、「長崎の鐘」など、ヒット作には枚挙がない。私の好きな作曲家である。そうそう、何をかくそうかの有名な「六甲おろし」。これ以上書くと長くなる、もうやめとこ。
先日、「サビタの花」の項で、北海道オンネトーのことを書いたが、その続きである。あのあと、東へ道をたどって、サロマ湖へ行った。歌と地図とから、漠然と"ホーツク海の近くにある山の湖"というイメージを持っていた。今思うと、そのイメージは摩周湖に近かったといえる。しかし、実際のサロマ湖はそれとはおよそかけ離れた水平的な湖だった。
サロマ湖。琵琶湖・霞ヶ浦につぐ日本第3位の大湖である。遙か彼方に続く砂嘴さえ見えなければ、立派に海として通用する。かつては海流で運ばれる砂のためにオホーツク海と隔てられていた。そのため春の雪解け時には湖の水位がが上昇し、湖畔の集落が被害を受けた。昭和4年に砂丘のいちばん細い部分を人工的に切り開いて水路を造った。それ以外、洪水の被害は減ったが、海水の出入りが自由になり、「サロマ湖の水はからいよ」という状態になったという。
そのころ(サロマ湖を訪れたとき)、私はまだ京都に住んでいた。琵琶湖すら瀬田川の鉄橋を通り過ぎるだけの存在だった。そんな状態で、このサロマ湖の岸にたった。とまどった。はるか彼方に横一線の砂嘴が1本横たわっているだけで、その上は茫と霞む空。風景が行ったまま返ってこないのである。
そのあと、滋賀に住まいするようになって、琵琶湖とのつきあいが始まった。いま、琵琶湖の湖岸に立って湖を見るとき、やはり湖岸線は横一線になる。しかしその向こうには山が見える。それによって風景は返ってくる。対岸の山が私の視線を受け止めてくれる。
この歌を聴くたびに、ただただ横に広がる湖を前にして、茫然為すすべがなかったあのときのことを思い出す。アー サロマ湖の 水はからいよ。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP


