畦道で・2
■野洲市三上。昨日と同じ場所。花を山の上へ出そうと、カメラを下げたら、田圃が見えなくなってしまった。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
■付録:一昨日(5月21日)、槍・穂高を見て来ました。高山市西郊外から。
中央・槍ヶ岳。右の3つのコブ・穂高連峰。左端に大きな山が見えるがよくは分からない。笠だけかな?カシミールで調べれば分かるのだが、ずぼらをしてまだ調べていない。

■穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
012.餓鬼・燕・槍・穂高-------
6.燕岳の朝
燕岳の朝。またしても快晴である。と、書いていてはいるが、これは写真を見てそうだったのかと思うだけで、このときの記憶が全くない。私たちは、このとき、餓鬼岳小屋、燕山荘、槍ヶ岳山荘、奥穂高山荘と計4泊した。燕山荘を覗く他の宿泊は、断片的ではあるが、何らかの記憶がある。ところがこの燕岳周辺については、完全に記憶が消えてしまっている。
小学校で習った「燕岳へ登る」で、ことのほか親しみを持っていた燕である。当然何らかの意識が働いて、記憶に残ってしかるべきなのだが、それがない。不思議である。今考えるに、この前後だけが、いちばん楽なコースだったのだろう。人生、苦しかったこと、しんどかったことは記憶に残るが、平穏無事だったことは記憶に残らない。
アルバムを見ると、「自家発電、蛍光灯には大しして驚かなかったが、テレビがあったのには驚いた」とある。我が家には、テレビがなかった時代である。それを見た記憶ぐらい残っていそうなものだが、それすら残っていない。人間の記憶のメカニズム探求のモデルぐらいにはなれるかもしれない。
朝日をうけて輝く槍ヶ岳。右端に笠ヶ岳がまだ眠っている。(右端、明るい稜線の上に見える黒い山影)。
上とほとんど同じ場所からだろう。太陽が高くなって、笠ヶ岳が目を覚ます。陽が当たって返ってわかりにくくなった。拡大すると何とかわかる。笠ヶ岳は、槍・穂高連峰から蒲田川をはさんで西側に位置する山で、いい山である。後日、詳述する。
朝日に輝く燕岳、だろうと思う。記憶全くなし。
槍ヶ岳をバックに記念撮影。写真を見れば、自分であることは間違いない。しかし、撮ったときの記憶は全くない。
赤外線写真。自然の遠景に対しては、効果を発揮するが、このような(標識)人造建造物では、露出オーバーになってしまい。手の打ちようがない。
テレビがあったという燕山荘。餓鬼岳山荘とは雲泥の差。 ■近江富士写真展開催中 花緑公園ふるさと館内ギャラリー兼休憩室
■むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
畦道で
■野洲市三上。田植えも終わって一段落。畦道にシロツメ草が群生する。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
■穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
011.餓鬼・燕・槍・穂高-------
5.北燕・燕走路
奇岩林立の風景を楽しんで燕岳に近づく。一見、縦走路はそのまま続いているよう見えるのだが、南餓鬼岳を越えたところで、東沢乗越へと下る。そこからもう一度ジグザグ道を登りなおしたところが北燕岳。そこから燕岳へと縦走する。
北燕岳へ達すると、風景が一変する。岩が並んでいることについてへ大差ないのだが、こちらのほうが風化が進んでいるのだろうか。斜面一面が白い花崗岩の砂で覆われている。その白さのためか、山全体が清楚な感じがする。この広く美しい斜面に、人っ子一人いない。全山貸し切りの中を縦走を楽しむ。
岩と岩の間から見る燕岳。ガスに巻かれている。
めらめらと燃え上がる、不動明王を取り巻く炎のようなような岩の姿。
小鳥が岩頭に止まる。山の鳥、雷鳥以外には岩ヒバリぐらいしか知らないが、さあこの鳥は?。
太陽が強ければ、おそらく目も開けておれないような白砂である。
近づいた燕岳。ガスが巻いたり離れたり。■近江富士写真展開催中 花緑公園ふるさと館内ギャラリー兼休憩室
■むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
1号バイパスから
■湖南市正福寺、甲西北中学の近く。湖南市岩根から菩提寺まで、国道1号バイパスが暫定開通した。これは、甲西大橋から十二坊に向かう県道との交差点である。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
■穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
010.餓鬼・燕・槍・穂高-------
4.餓鬼・南餓鬼縦走路
さて、山へ入って2日目。燕岳への縦走である。きょうはその前半、南餓鬼まで。
確かにガイドブックにあったように奇岩林立。その上人はいない。こんな楽しいところはない。きのうは足も上がらないほどバテたが、一晩寝て元気回復。天気も上々、あれやこれやと写真を撮って楽しんでいた。この2枚は、例の赤外線写真である。普通のネオパン級のフィルムではどうしても空が白く飛んでしまう。それに対して、赤外の空の描写が面白い。

へっぴり腰で立っているのが、かく申す私。ネオパンダとどうしてもこのように空が空疎になる。黄色のフィルターぐらいでは何の足しにもならない。オレンジやレッドを使ったが、そうすると露出倍数がかかる。素人の手持ちではしんどかった。
縦走路を南へ下がるほど、岩の形が燕岳に見るような、スマートな感じになってくる。特に下の写真などは、燕の岩そっくりである。
■近江富士写真展開催中 花緑公園ふるさと館内ギャラリー兼休憩室
■むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
黄色い花
■野洲市南桜、家庭菜園の道沿いに咲いていた黄色い花。例によって花の名前は分かりません。なんせ、「白い花の咲くころ」の時代ですから。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
■穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
009.餓鬼・燕・槍・穂高-------
3.餓鬼岳の朝
朝5時前に目を覚ます。窓には薄く露が降りており、空はバラ色。太陽はまだ上がっていない。一緒に起き出した燕氏が。「ほう、槍が見えますね」という。指さす方を見ると、なるほど槍だ。餓鬼から燕へ向かう尾根の上に、小さく顔をのぞかせていた。見えるときはこんなに簡単に見えるのか。不思議だった。過去2回まで視界不良でダメだった。それがこんなに簡単に。生まれて始めて見る槍だった。
小屋の中から見た風景。稜線の手前に雲がわき出しているから、多分、外での撮影を終わって、出発間際に撮ったものであろう。しかし、稜線の向こうに槍が見える。「ほう、槍が見えますね」と、燕氏が指さしたのは、まさにこの風景だった。
雲海の向こうからの日の出。これも生まれて初めてのものだった。モノクロームでの日の出、何をどう撮っていいのやら。手前に人物でも入れて、適当に撮っとけや。
小屋の背後の餓鬼岳へ登ってみた。標高が高くなった分、槍がせり上がって見える。今こうしてみると、この写真ピントが甘い。多分振ったのだろう。
眼下にきょうの縦走路が見える。ここを歩くんか。けっこうきつそうやで。拡大すると見えるが、画面左の方、手前、燕の稜線の向こうに奥穂高から前穂高に続くいわゆるつり尾根が見えている。
小屋の前から、背後の餓鬼岳を見たところ。上2枚はこの頂上から撮ったもの。
高瀬渓谷を挟んで見る烏帽子山系。上の縦走路の写真に比べると、こちらのほうは屏風を真正面から撮ったようなもので、もう一つ魅力がない。琵琶湖東岸から比良山を撮るとこういう構図になる。■近江富士写真展開催中 花緑公園ふるさと館内ギャラリー兼休憩室
■むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
素朴な灯籠
■野洲市南桜、県道27号沿い、家庭菜園の一角にこの灯籠や石仏を並べた場所があります。遠い記憶をたどってみると、大きな松の木があって、そこに地蔵さんがまつられていた、そんなところです。三上山と一緒に収めようとすると、雑然とした周囲が気になりますが、灯籠や地蔵さんだけなら面白い絵は作れます。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
■穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
008.餓鬼・燕・槍・穂高-------
2.信濃常盤から餓鬼岳小屋まで
駅前の旅館で、と安易に考えてきたのが間違いだった。信濃常盤、本当に素朴なところだった。田圃とリンゴ畑、旅館などどこをさがしてもない。親切な駅員さんの手配で、Oさん宅に泊めて貰った。翌日、朝食を食べているとき、例の駅員さんがやってきて、「北海道から来た人が、餓鬼岳へ登るといっている。いっしょに登ったら?」という。
駅前から、線路を渡って反対側に出ればこんなところだった。当時のことだから道は地道、田圃の向こうはリンゴ畑か桑畑か。目指す山は雲に隠れて見えない。左、山馴れした格好でピッケルを担いでいるのが北海道氏、右が友人のHクン。
北アルプスの有名な山なら、駅前から、登山口までバスの便があるのだが、ここはそういうお節介は一切なし。山へ行きたけりゃ自分の足で歩け。それがいやなヤツは来るな。いいねーこういう精神は。長い道を歩いて、いい加減いやになったころやっと登山口へ。「餓鬼岳まで12Km,約7時間」とある。
登り初めてすぐ道が分からなくなった。あれこれ騒いでいると、ひょっこり炭焼小屋の前に出た。そこでのやりとりは記憶にないが、山道を登っていく写真が残っている。写っているのはHクンだが、その前に2人いる。多分炭焼きさん夫婦だろう。どうやらしかるべきところまで案内して貰ったらしい。このあと、炭焼きさんとわかれてから、餓鬼岳小屋に着くまで、自分たち以外には誰一人として人間には遇わなかった。
炭焼きさんと別れて、渓流歩き。単なるスナップ写真だけれども、北海道氏の身のこなしは安定して見える。
続いて滝が現れる。「黄葉の滝」だとか。ここらあたりになると、黄葉でも新緑でも何でもエエ、どこまで登れちゅうネヤ。出かけにOさんのお婆ちゃんがリュックに詰めてくれたリンゴが肩に食い込む。捨てるわけにも行かず、早く荷物を減らしたい、そんな一心でリンゴばかりかじっていた。画面の左下に北海道氏の足が見える。ここらあたりまでは一緒だったのだろうが、いつかすーと前へ行ってしまった。こんな素人に付合いきれんというところだろう。速いばかりが能じゃないと思うが、遅いばかりも能じゃない。山の歩き方を知らなかったのである。
今度は「魚止の滝」。いわれんでも魚は止まるわい。こんな滝、どんな魚が上るねん。とにかくしんどいから、滝の名前を見ても腹が立った。山に登るのだから地図は持っている。しかし、その地図を事前にしっかり読んでいたか。今思うとどうも怪しい。地図には滝のマークもあったはず。滝があれば、一気にその落差分を稼がなければならないのだから、道は険しくなって当たり前。このことは昭和40年代の前半、馬籠・妻籠のついでに田立の滝へ行ったときに、身をもって体験した。こんな簡単なことでも、体で分かるまでに10年かかっていた。
それにしてもこの登りはきつかった。最後は足が上がらなかった。
滝が終わると今度は、じめじめした樹林帯だった。枯死した木に得体の知れないとろろ昆布のようなものがぶら下がっていた。サルオガセと呼ばれる寄生植物だが、そのときは「あれは何やろね」と不思議がっていた。やっとの思いで餓鬼岳小屋にたどり着いたのが、6時40分、あたりは薄暗くなって、手持ちのシャッターが切れなくなっていた。駅前のOさん宅を出発したのが午前7時15分。ほとんど12時間かかったわけ。先着しているはずの北海道氏はいなかった。おそらく燕まで足を伸ばしたのだろう。かわりに燕から来たという男が一人ぽつねんと座っていた。
■近江富士写真展開催中 花緑公園ふるさと館内ギャラリー兼休憩室
■むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
こんな湖あったかな?
■野洲市南桜、県道27号と野洲川のあいだである。南桜にこんな「みずうみ」があったかな。私は田圃の広さを読む能力はないが、かなり広い田圃である。それに水が張られて、素人目にはそのまま放置されているように感じられる。いずれはどこかで田植えされるのだろうが、現時点では湖は大げさだとしても、ちょっとした池ぐらいには見える。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
■穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
007.餓鬼・燕・槍・穂高-------
1.京都から信濃常盤まで
昭和32年、山へ行きだして3年目、まだ山の歩き方も知らないのに、槍へ行こうと言い出した。友人Hクンは、上高地から槍沢を詰めるのがスタンダードだが槍沢が長い。燕へ登って、表銀座を縦走しようという。例によって一ひねりしなければ気が済まない私は、「表銀座」かてもっとスタンダードやないか。そんな誰でも行くところはおもしろない。もうちょっとなんとかならんのか、と地図を見ていて、燕の北に餓鬼岳という山があるのに気がついた。
餓鬼岳、なんちゅう名前や。えぐい名前やな。と、調べてみると、奇岩が林立していて、燕までは、尾根づたいに一日行程だという。しかし、アプローチの悪さが災いしてほとんど登る人もない。・・・これは面白い。と、いえたレベルではなかったのだが、当時はそんなことお構いなし。よしこれにきめた。
----以上2008年3月25日ブログから一部転載------
前の年、白馬行きの夜行にはほとほと参ったと見えて、この年は昼間の列車で行くことにした。京都から名古屋までは急行”雲仙”、名古屋からは準急”しなの”。今なら新幹線に乗る必要のない旅なら、快速電車を乗り継いでいけばいいのだが、当時は米原~京都間は非電化、どうしようもなかった。
上から3枚は、中央線多治見付近の豪雨の爪痕である。山崩れで対岸の国道は不通になっているし、線路もいたいたしく破壊されている。復旧工事が行われているが、今とはかなり雰囲気が違う。
ホンマにこんなところを列車が通るの?。こうしてみるとこれからここを通るように見えるけれども、これは列車の最後尾から撮ったもの。今通ってきた線路である。こんなとこを通ってきたの?、というところで、お尻のあたりがゾーとしてくる。
中央線は、当時れっきとした単線。こうしてときどき列車の交換が行われた。この写真誰がどうして撮ったの?、今では絶対考えられない話。乗っていた列車からひょいと飛び降りて、撮ったまでのこと。どうして飛び降りたの?、今の上品な若い方はそうおっしゃるだろう。電車から車外へ飛び降りるなど考えられないこと。しかし、当時は何がどうということはなかった。
夏、冷房のない車内は蒸し風呂だった。それより開放的なデッキの方がよっぽど快適だった。特に最後尾のデッキは最高だった。
オープンデッキだから、写真は撮り放題、風はびゅんびゅん入ってくるので暑さ知らず。私たちは、これを4等展望車と呼んでいた。当時、特急「つばめ」などについていたのが一等展望車。庶民が乗るのが三等車、その下の4等である。ちなみに、前回、白馬の項で見て貰った、床に寝るのが4等寝台である。
もし走行中にそこから落っこちたらどうするの?。しょうもない質問するな!。落っこちら死ぬしかしようがないでしょうが。
人生すべて命がけ。しかし、もしそこで死んでいても国鉄を訴えるつもりはなかった。自分の責任でやっていたのだから。
と、そこまで大見得を切るのはいいのだけれども、もし仮に、ほんまに落っこちてたら、迷惑がかかるんだなー、周囲に。本当の判断基準はそこだよ。
松本から信濃大町までは電車、ここではさすがに4等はやれなかった。餓鬼岳の登山口、信濃常盤は大町の一つ手前である。いまは立山・黒部アルペンルートで有名な大町だが、当時はひっそりとしたもの。ましてやその一つ手前の信濃常盤など、誰も知らない駅だった。そこへ降りた私たちと駅員さんとのやりとり。音楽夜話「禿げ山の一夜」をご覧いただきたい。
■近江富士写真展開催中 花緑公園ふるさと館内ギャラリー兼休憩室
■むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
国道から
■湖南市石部。野洲川頭首工沿いを走る国道1号からです。手前の稜線は菩提寺山。石部から草津に向かって走るとき、菩提寺山の後ろから三上山が現れるところです。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
■穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
006.白馬岳・3-------
白馬山荘で一泊した翌日。ガスと風の中を黙々と行く登山者。何にも悪いコトしてないのに、何でこんなところを歩かなければならないのかと思う。誰も声を出さない。ただひたすら、黙々と前の人の踏み跡をたどっていく。
下れる道があれば、何でもいい、とにかく風下へ下りたい。結局白馬鑓温泉への道を下りた。不思議なもので、数m下っただけで、風は弱まる。尾根の風下側へ回ったのである。50mも下ると完全に風は止んだ。雪渓を越えるとまた前に現れた。猿倉までの道は長かった。
駅名表示板が木に隠れて分からないが、多分、信濃四谷(いまの白馬)だろう。木材を積んだ無蓋貨車と客車の混成列車、機関車はC12。普通の機関車は、いわゆる機関車の後ろに石炭と水を積む炭水車を牽いているのだが、この機関車は炭水車と機関車が一体になっていて、バック運転がしやすいのが特徴だといわれていた。
野球で飛んでくる球を見ながら後ろ向きにバックすることを「機関車バック」といわれるが、機関車を転写台に載せて、ぐるっと半回転、方向転換することは大変な作業だった。この機関車はこの方向転換が不要だということで、ローカル線では重宝されたという。「大阪行き」の行き先表示板。松本・名古屋経由。大糸南線(当時は大糸線は全通しておらず、信濃森上が終点だった)からの混成列車が松本まで行き、そこで長野から来た列車につなぎ替えられていたのだろう。
■近江富士写真展開催中 花緑公園ふるさと館内ギャラリー兼休憩室
■むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
南桜から
■野洲市南桜。家庭菜園の片隅にに咲いていた花である。花を撮るとどうにもつらい。名前が分からないのである。分からなければ調べればいいのだが、それができない。難儀なものである。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
■穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
005.白馬岳・2-------
昨日見ていただいた、あのものすごいバスに揺られて猿倉へ。そして大雪渓にとりつく。これがその末端の一部、水が解け出しているところである。行くまでは、真夏に雪を見たことはない。どんなにきれいなところかと想像していった。白いには白いのだが、ほこりをかぶって、灰色に近い。考えてみれば当たり前のことだった。
このときも靴はズック靴だった。それで雪の上が歩けるのか、雑誌を読むとアイゼンとかがいるという。野球のスパイクすら履いたことがないのに、そんなスパイクの親分みたいなものがはけるのか。結局、運動具店の紹介で、四つツメのストッパーみたいなヤツをひもでくくりつけることにした。
大雪渓にとりついて間なしの写真である。写っているのは、わがパーティーの関係者ではない。この連中はピッケルを持っているし、かなり馴れた足取りである。多分その姿に尊敬の念を抱いて、後ろから、おそるおそるシャッターを切ったのだろう。このように勾配のあるものを、下から上へ向かってカメラを構えると、上りだか下りだか分からなくなる場合が多い。この場合も、2人組がいるから、その姿勢で登りだと分かるが、そうでなければ、下りだといわれても反論のしようがない。
大雪渓の上部である。ここらあたりで、斜面の勾配は30度ぐらいはある。三角定規を思い出してああ30度かと簡単にいうけれども、いざ上ってみるとこれはきつい。正面に見えている山は杓子岳。大雪渓を上ると、この角度から見たとき必ず目をひく端正な山である。いま思い出してみても、この山は印象の薄い山だった。視界がきいたのはここまで。上るに従って天気は悪くなり、白馬山荘に着いたときには、ガスの中。それは翌日になっても回復しなかった。
■近江富士写真展開催中 花緑公園ふるさと館内ギャラリー兼休憩室
■むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。
■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP


