親水公園・3
■きのうと同じ場所です。野洲市須原の江口川親水公園。小川にかかる橋の欄干にカラスが一羽、いつまでもじっと止まって動かなかった。◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」(毎週水曜日発行)に写真シリーズ ”三上山物語” を連載しています。・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。
■穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
023.先人二人-------
2.田淵行男氏
20歳代前半、私が大きな影響を受けた二人の先人。きょうは写真家・田淵行男氏の写真集『尾根道』。
講談社発行の『山の写真と写真家たち』(杉本誠著)によると、・・・昭和26年初の写真集、46歳のデビュー・・・・とある。昭和26(1951)年6月、『田淵行男・山岳写真傑作集』一冊で彗星のごとく現れ、そして消えることなく恒星となった。この本はアサヒカメラ臨時増刊の形で出版された。しかし、これらの写真は、田淵がアサヒカメラ編集部に見せたモノではない。発表の意思もなく、自分用に作ったアルバム「わが山旅」を友人が見て、『科学朝日』に持ち込み、それがアサヒカメラに回ったのだという。
昭和26年、私は高校3年生。山岳写真傑作集なるものは知らない。そして、写真集『尾根道』、昭和33年6月、やれレコードだ、FMチューナーだ、ステレオレコードだと騒いでいるときだった。定価2000円。レコードが1枚2300円の時代だった。給料が1万円そこそこの時代、当時としては高い本である。おそらく学校へ出入りの書店の主人に無理を言って、何回かの分割払いにして貰ったのだろう。
横書きなのに右開きという不思議な本だったが、内容が写真だから、何の問題もなかった。これはその表紙、黒を基調とした格調の高いものだった。
写真の対象は北アルプスを中心として、南アルプス、八ヶ岳、浅間山に及ぶが、なかでも高山蝶研究のため登山回数が100回を越えるという蝶・常念から見た槍・穂高連峰の写真は圧巻だった。
当時のことであるから、作品の大部分がモノクロームである。暗く押さえられた空に、枯死した白樺の幹がすっくと立っている。残雪の稜線と空のコントラスト。橙または赤のフィルターで青空を押さえた色調にあこがれた。
昭和30年代前半、いわゆる押入暗室のこもって、自分でフィルム現像から焼き付けまでをこなすのが、写真を本気でやろうとするアマチュアの常識であった。この「焼き」が写真のできを左右した。写真雑誌のグラビアなどを参考にして、自分の『色』を出そうと苦労したそのころ、この『尾根道』の色調と構図は、私の写真の究極の目標となった。
田淵氏が亡くなったのは、平成元(1989)年。享年83歳であったという。その後、ゆかりの地安曇野に田淵行男記念館が創設された。かつて、すすだらけの客車の床に寝て、一晩がかりでD51に牽かれていった北アルプスの里も、今では私の住む滋賀県から、中央自動車道を走れば、4時間ちょっとの距離に近づいていた。
長野道を豊科ICで降り、広いきれいなバイパスを5分ほど走ったところに、その記念館はひっそりと建っていた。2階建てではあるが、入り口のある2階が、平地とほぼ同じ高さにあり、1階は一段した野わさび畑の清流に面しているという、志野自然に対する心をそのまま建物にしたような設計であった。バックの常念岳が印象的だった。上ははその記念館のリーフレット。
私が購入した氏最後の著作。『山は魔術師』。1995年3月j、実業之日本社刊。氏夫人・田淵日出子さんの文章によると、晩年、パーキンソン病と闘いながら、病室で、麻痺してゆく左手でレイアウトを書き続けたのだという。
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