西の湖から
■安土町下豊浦、西の湖畔にいたカモのファミリー。久しぶりに西の湖へ行ってみた。3羽のカモが毛繕いをしていて、近づいても意に介さない様子。一見、剥製を置いたようにしか見えないのが残念。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
116.大糸線C56と碌山美術館
昭和45(1970)年11月、野洲へ引っ越した。新しい土地の珍しさもあって、休日になれば、当時唯一の機動力だった自転車であちこちを走り回っていた。本格的に三上山の撮影にはいるのは、もう少し先のことである。
翌昭和46年(1971)年9月、八王子の私学研究所で、教育課程説明会。9月27日(月)スタートである。このチャンスを使わない手はない。ということで、今回は大糸線。いわゆる大糸南線・北線の分かれていたころ、白馬や餓鬼へ行くのに乗ったことはあるが、それはただの通過のみ。一度全線通して乗ってみたいと思っていた。
その上に碌山美術館。昭和33(1958)年4月の開館以来、すでに10年以上がたっていた。その間、ぜひ行ってみたいと思っていつつ、チャンスがないままになっていた。そのころ発刊された臼井吉見の大河小説『安曇野』(全五巻・筑摩書房刊)の第一巻に登場する碌山・荻原守衛の姿が結びつき、その思いは大きくふくらんでいた。
昭和46(1971)年9月25日(金)
前線が日本海にあって、本州南部は太平洋高気圧に覆われている。野洲、23時50分発、新潟行きに乗る。当時、この後の電車は、すべて野洲止まり。篠原以遠では、最終となる列車である。以前はたしか大阪発青森行きだったはずだが、さすがこのときはそんな長距離ではなくなっており、新潟行きになっていた。
写真は当時の野洲駅。2・3番ホームの階段付近で、一見するといまとほとんど変わらないが、いまの橋上駅になる前の姿である。右側の電車は、野洲止まりの電車で、このあと新潟行きが入ってくるところ。


米原あたりまでは通勤客が目立ったが、それを過ぎるとがら空きになる。シートに横になって眠る。その昔の4等に比べれば極楽。
高岡で外が明るみ出す。


どのあたりかは分からないが、東の空がカッと燃える。立山か剣か、いずれ名のある山のはずだが、たまにしか見ないアングルだから、山の名は分からない。
そんなことよりも、上の2枚を見て、「同じ写真を2枚も並べて、何の意味があるのや」と思ってくださる方が一人でもおられたら、私の意図は意味があったというものである。
実はこの写真、左は今回列車の中から撮ったもの。右は、そのときから4年前、昭和42(1967)年8月、写真部の生徒と、立山へ登ったときの写真である。浜黒崎のユースホステルで、寝ばなをくじく長説教に辟易した翌朝の写真である。カラーでないので色が判然としないが、私の記憶の上では全く同じ状況だった。立山登山の時は、その日の午後から天気が荒れ出し、その雨で新潟地方に被害が出るほどの降りになった、曰く付きの日の出の写真である。このときはまだ知らぬが仏だったが、実は寝耳に水の台風が足音を潜ませて近づいていたのである。
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