2008年05月13日

田植えのころ



写真拡大■湖南市正福寺。野洲川右岸に国道1号バイパスが開通しました。片側1車線の暫定供用だけれども、のどかだった田園地帯の雰囲気が変わりだします。その道路の横で、いまは田植えの準備ですが、いつかは風景が変わっていくことでしょう。カメラのすぐ横はバイパスです。



◆朝日新聞週刊情報誌「あいあい AI 滋賀」に写真シリーズ ”三上山物語” を連載します。・・・・5月14日号スタート、約1年間の予定です。


■穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
   
 002.いざ上高地へ-------
 
写真拡大 目的地は上高地だったのだが、行きがけの駄賃で、美ヶ原へ寄ったことは、音楽夜話「アルプスの牧場」のところで話をしたので割愛する。その美ヶ原から帰ってきて、再び松本駅。そういえば、そのころまだ駅前から浅間温泉行きの電車が出ていたが、残念ながらその写真はない。
 上の写真は、松本電鉄のホーム。当時のメモでは、2両連結だが総括制御ができず、前と後ろに運転手が乗って、お互いベルで合図しあいながらそれぞれがそれぞれの車両を制御する。100mの所要時間が15秒。短距離なら走った方が速いとある。

写真拡大 島々でバスに乗り換え、梓川渓谷へ分け入る。山頭火の俳句に「分け入っても分け入っても青い山」というのがあるが、こちらは「分け入っても分け入っても細い道」である。小さなトンネルと吊り橋。右に見えている砂利道がバス道である。ここをもうもうと砂煙を上げていくのである。アメリカ兵が「日本の道は道路ではない。道路予定地だ」といったというが、まさにその通り。いまのわれわれが見ても、これがバス道だとはとうてい思えない。


写真拡大 それにしても、このスノーシェルターはどうだ。こんな下ををくぐるの?。息を殺して一目散。いくら大丈夫といわれても、いまなら手前でおろしてくれと叫びたくなるところ。ここを定期バスが運行するとなれば、社会問題間違いなしというところだろう。
 それにしても、この路肩で、離合はどうするの?、それそれ、それが大変。窓から外を見ていると、渓谷の上に体が出ているような錯覚を持った。とにかく神業というか、芸術的というか・・・。大した事故もなく運行していたのだから恐れ入る。

 これは人から聞いた話だから、話半分として読んでいただきたい。路肩がコンクリートで補強されているところがあった。それはいい。そこで前を行くバスが例の神業離合をやった。それを後ろから見ていたら、ダブルの後輪の外側のタイヤが路肩からはずれて宙に浮いていたという。もちろん路肩の外は千尋の谷である。ガードレールはなかったの?。それはいまの人がいうこと。そんなものあるはずネエでしょうが。

 車内の冷房など考えられない時代だから、窓はすべて解放のまま。前車の後塵を拝せばこれは地獄。沢渡ではエンジン冷却のためと称して大休止。売店の前に猿がつながれていて、愛嬌を振りまいていた。釜トンネルでは絶対に窓から首を出すな。・・・さすがここで、首を出すやつはいなかった。首を出せば生きて帰れる保証はない。車内はしんと静まりかえっていた。

写真拡大 河童橋の上流の小梨平がキャンプ場になっていた。五千尺旅館の横の方に事務所があって、申し込むと「はい、何番のテント」と指定をしてくれた。

 そして迎えた上高地の朝。左は赤外線写真による穂高である。赤外線は赤よりさらに波長が長い。そのため空気中のちりやほこりに影響されにくく遠くまで届く。そんな特性をいかして、陸地測量の航空写真等に使われていた。赤のフィルターを使って撮影するのだが、このように緑の木の葉は、新緑のように白く写った。一見樹氷のように見えるのは、緑の葉っぱである。
 
 当然青空は黒く写り、山襞なども、太陽が当たる当たらないで、くっきりと立体的に写り、山岳写真ではよく使われていた。赤外線の波長が可視光線より長いため、ピント位置が少しずれる。その調節が面倒だったが、露出は風景の明暗とは無関係に、一定の値が指定されており、露出に苦労した当時としては、逆にありがたかった。その露出値は、しっかり覚え込んでいたはずだが、いまは思い出せない。

■近江富士写真展開催中 花緑公園ふるさと館内ギャラリー兼休憩室

むかし語り音楽夜話索引を作りました。バックナンバー検索にどうぞ。

デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
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