2008年09月12日
三角点・2
■きのう三角点の写真を載せたら、「ふじ・愛サン」さんから 「三角点 今と昔測量の違い、誰か教えて・・・」とのコメントを頂きました。もちろん私は測量のことなど、全くの素人ですから、何にも分かりません。「ふじ・愛サン」さんのコメントとは見当違いですが、左の写真、1999年1月の撮影です。120度の3方向に白い翼が出ています。ベニヤ板と木でできたちゃちなものですが、ベニヤ板の上面には白く塗装が施されていました。衛星写真の補助的なものだったのでしょうかね。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
124.大糸線C56と碌山美術館
昭和46(1971)年9月26日(日)
臼井吉見『安曇野』、(筑摩書房刊、第1巻初版発行・昭和40(1965)年6月10日)。彫刻家・荻原守衛(碌山)との出会いは、この本であった。いまは町村合併で、「安曇野市」なるものが誕生したが、当時は「安曇野」という地名が、いまほどポプラーになってはいなかった。私自身、安曇野という地名を意識したのも、この本だったような気がする。
全5巻からなるこの大河小説は、新宿中村屋を舞台とした、創業者相馬愛蔵・黒光夫妻の物語だが、明治30年代の安曇野、第1巻では、彫刻家・荻原守衛(碌山)が重要な人物として登場する。
この本を読んで、ぜひとも訪ねてみたいと思ったのが、この碌山美術館だった。
雨の中を、大糸線沿いの砂利道を歩く。駅員さんが教えてくれた地図の記憶をたどるまでもなく、林の中に見える尖塔を目指していけば、そこはもう入り口だった。
「蔦のからまる チャペルで 祈りを捧げた日・・・」、ペギー葉山が歌った「学生時代」を思わす玄関。激しい雨の中で、ひっそりとたたずんでいた。
入口前の林の中で雨に濡れる「労働者像」。明治42年、碌山31歳の作。完成後、碌山自身によって、左腕と両脚が取り去られたものという。

案内を乞うて中に入れば、「デスペア」、「女」、「文覚」、「女の胴」等々。なかでも、相馬黒光の面ざしが現れているという「女」の流動的な線のすばらしさ。
「女」、明治43(1910)年、碌山32歳の作。この後すぐ、中村屋で喀血、4月22日朝、死去。
頼んででも写真を撮りたいと思っていたのだが、別段撮影禁止でもなく、皆カメラを向けているので、うれしくなって、何枚か撮る。


英語で、絶望という意味だとか。黒光の次女千香が泣きわめく姿からヒントをえて、作られたといわれている。
荻原碌山
明治12(1879)年、長野県南安曇郡穂高村に生まれる。
明治32(1899)年、上京、絵を学ぶ。
明治34(1901)年、渡米、ニューヨークで絵を学ぶ。
明治36(1903)年、渡仏、パリで絵を学ぶ。
明治37(1904)年、ロダンの「考える人」を見て、彫刻家を決意。
明治40(1907)年、ロダンの指導を受ける。
明治42(1909)年、「デスペア」、「労働者」成る。
明治43(1910)年、「女」成る。新宿中村屋で死去。享年32歳。
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