夏のなごり
■野洲市南桜。台風が去って雲一つない快晴。稲刈りも終わって、辺り一面草原に見える。夏のなごりのヒマワリがわずかに花を残している。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真・148--------
あのころの馬籠
昭和43(1968)年8月22日
だらだら坂を登って馬籠の宿はずれに立つと、恵那山が見事に高く見える。ススキが生えていたりして、はや初秋のムード。2190mのこの山について、藤村は次のように書いている。”遠く美濃の平野の方へ落ちている大きな傾斜、北側に山の懐をひろげてみせているような高く深い谷、山腹に当たって、俗に「鍋づる」の名称のある半円形を描いた地形…”、その女性的な豊かな山容に、きょうは白雲が遊ぶ。
道はいったん小さな谷に下り、さらに段々畑の中を登っていく。日本的な風景である。



馬籠から30分ほどで峠部落に着く。昔の街道時代そのままを思わせる家々は囲いもなく、道に沿ってぎりぎりに建っている。白い障子もそのまま道にそってぎりぎりに面している。軒端にトウモロコシがつるされ、冬に備えてマキがが準備されている。
集落の中程、道ばたに小さな生け垣の囲いがあって、「峠之御頭頌徳碑」なるものがある。一瞬峠のテッペンを表すのかと考えたが、徳をたたえるとなると、ちょっと話が変わってくる。事実、ここは「峠」と呼ばれる集落であって、峠そのものではない。江戸時代末期、この峠にあって、ありとあらゆる相談を一手に引き受けて、それを徹底的に解決することに努力した人がいた。今井仁兵衛、人呼んで”峠の頭”という。どこの地にも頭的存在の人はいただろうが、この峠のお頭ほど義侠にとんだ人は、他には居なかったという。その徳がいまこうして碑となって残る。


石が置かれた屋根がある。静かであった。人は山へ働きに行っているのであろうか。
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■デジカメ わいわい村「とれとれ作品集」
■全国ふるさと富士サミット講演録 『谷文晁が見た三上山』
■写真ステージ 「近江富士」 HP
秋空に
■湖南市平松。国道1号針交差点から山手へ向かう。タキイ研究農場の横を経て、美松ハイランド住宅地へ出る。そのいちばん奥から阿星山への林道が続いており、かつてはその途中から三上山が見えた。今回訪ねてみると、崩土のため通行止めという。これはその林道の痛苦止めぎりぎりの所から。右が菩提寺山、遠景は比良山。拡大するとうっすら琵琶湖が見える。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真・147--------
あのころの馬籠
昭和43(1968)年8月22日


記念館の中にある藤村座像のライティングまたしかりである。外から見れば、何の変哲もない障子窓が、その内側に置かれた座像への採光窓になっている。それが下手のスポットライトをいくつも照らすよりも、遙かにすばらしい効果を上げている。オランダの画家レンブラントのアトリエもかくあったかと思わせる。お見事という他はない見事な演出であった。


小説『夜明け前』に出てくる伏見屋は、本陣の庭から記念館の屋根越しに見える実在の大黒屋である。小説には、”石垣の上に高く隣家の伏見屋を見上げる云々”とある。
その大黒屋はお休所と記されていて、入口にさりげなく蓑などが掛けられている。これも一連の舞台装置の一つなのだろうが、いかにもそれだと感じさせないところが憎らしい。


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秋の空
■野洲市三上。稲刈りも終わって、台風も南方洋上を東進。大事に至らず。空の色が秋本番。山の木々も心なしか秋色。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真・146--------
あのころの馬籠
昭和43(1968)年8月22日


藤村記念館。朝が早いせいか、人も少なくきわめて静か。明るい朝の光が白壁に映える。この記念館は、谷口吉郎がワイマールのゲーテ記念館を参考にして設計し、藤村の生家を元に近代的に復元したものという。写真左、1968年、写真右、2008年。門を入って右側の木がなくなっている以外、構造的にはほとんど変化していない。いま考えると、この記念館が、当時馬籠で唯一の観光資源だったのだろう。
藤村の家は、代々馬籠本陣を勤めた家柄で、彼の父で、17代目だという。だが、その家は明治29年の大火で焼けた。『桃に雫以後』には、”私の郷里も村の火災後だいぶ変わりまして、今日ではほとんど往事の面影をとどめてはいません。旧宅もその折りに焼け、わずかに祖父の隠居所であった二階建ての家のみが裏側に残っています”とある。


門を入った正面の白壁に小さな額がかけられている。入ってきた誰の目にも止まる。それには、茶褐色のキャンバスに黒の字で、
血につながるふるさと
心につながるふるさと
言葉につながるふるさと
とかかれている。藤村風の字は小さく、1mぐらいまで近づかないと読めない。でも白壁に対する黒い額縁のアクセントが強烈なため、誰もが近寄って読む。


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真正面富士・2
■一昨日、名神高速道路からの真正面富士を載せたところ、アットプロさんから、「京滋バイパスの東矢倉南の交差点を信楽方面へ曲がり、名神高速に架かる橋からこの構図と同じように三上山が見えます」、とのコメントを頂きました。名神の橋には、防護用のネットがあり、撮りにくい記憶があったのですが、とりあえず行って来ました。両手を伸ばして、カメラをネットの上に出して、ぎりぎり何とか撮れました。本気になって撮ろうとすれば、脚立が要りますね。アットプロさん、ありがとうございました。またポイント教えてください。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真・145--------
あのころの馬籠
昭和43(1968)年8月22日


8時ごろ民宿を出て、まず永昌寺へ行く。『夜明け前』に万福寺という名前で出てくる寺である。街道から100mほど離れた丘の中腹にある。藤村の墓などがある静かなところ。霧が晴れだして、恵那山が姿を現す。別名船伏山といわれるとおり、船を伏せたようななだらかな稜線を見せる。


写真右、芙蓉の花である。馬籠ではいろんな所に咲いていた。私は例によってその花の名前が分からない。あまりたくさん咲いているものだから、人に尋ねて、やっと、これが芙蓉かと知った次第。
その昔、野尻湖へ行ったときのこと、湖岸線が大きく出入りするその湖を別名「芙蓉湖」というと教えられた。しかし字でおぼえるだけで、芙蓉の花そのものが分からないのだから話にならない。このとき、野尻湖の芙蓉はこれだったのかと納得した。以来この花の名前だけは忘れない。
街道から永昌寺への道。ひょっとしたらこの左の石段を登ったところが寺だったかも知れない。ちょっとした登り道で、右の木なども風景にうまくマッチしていい雰囲気だった。ここで一枚と三脚をセットしていたら、折良く荷物を担いだお婆ちゃんがゆっくりと登ってきた。それにしてもこの荷物の大きさには驚く。いまから40年前とはいえ、街では絶対に見かけない風景だった。このときも、まさに明治、江戸の姿を見るような気持ちであったのを思い出す。記憶に残る一枚だった。
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空高し
■近江八幡市野村町。湖岸道路岡山城址のすぐ近く。道路から田圃へ出て、ワイドレンズで空を仰ぐ。遠くに水茎町のポプラが並ぶ。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真--------
144.あのころの馬籠
昭和43(1968)年8月21日
民宿「下井筒屋」。通された部屋には、句碑の拓本がかかっていた。これやな、さっき見た石碑の拓本や。
「送られつ送りつ果ては木曽の穐(あき)」と読むらしいが、「送られつ送り川なんたらなんたら木曽のなんたら」としか読めんな。この「川」みたいな字がなんで「つ」やね。そういえば、最後の「木曽のなんたら」も確かに「木曽の蝿(ハエ)」やね。
夕食を運んできた奥さんが、銚子をひょいと持ち上げて、「これは先生にだけ、地元のお酒です。生徒さんはダメよ」、といいながら、一緒について来ていた若い教員をにらんで、「あんたもダメよ」。
昨日、一昨日の写真を見てくださった方は、高校生にしてはちょっとひねたのがおることに気がつかれたはず。実は出発の前日になって、生徒が一人参加できなくなった。民宿のキャンセルもきのどくだし・・・と思いながら、近くにいた新任のNさんに、「一人穴があいた。馬籠へ行くんやけど、あんた行かへんか。もちろん費用は自前。」というと、「行きます」と二つ返事でついて来た。奥さんは、その彼を生徒と間違えたわけ。「そうや、そうや、これはワシだけやぞ。生徒はアカン。お前もアカンぞ」。
‥‥木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。‥‥(略)‥‥馬籠は木曽十一宿の一つで、この長い谷の尽きたところにある。西よりする木曽路の最初の入口に当たる。そこは美濃境にも近い。美濃方面から、十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂を攀じ登ってくるものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。街道の両側には、一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪を凌ぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。‥‥島崎藤村『夜明け前』より昭和43(1968)年8月22日
6時前に目が覚める。一部に青空が見えているが、多くは雲に覆われて、あまりいい天気ではなさそう。7時前から、霧が出てくる。宿の奥さんは、「このような霧が出るときは晴れることが多いですよ」という。
馬籠の朝である。砂利道の両側に藤村がいう「石垣」が見える。それにしてもいい気な荷物。何が入っているのだろう。


上の2枚は、この項の最初に見てもらった写真だが、左が昭和43(1968)年当時、右が現在、平成20(2008)年のものである。当時すでに、藤村記念館はできていたし、いわゆる観光地化されかかってはいたが、まだ、藤村の『夜明け前』の風景がそのまま残っていた。
村のはずれから、大きな山が見えた。民宿の主人に尋ねると、「恵那山ですよ。このあたりでは一番高い山です」と、誇らしげにいう。「いま、あの山の下でトンネル工事が行われています。木曽谷と伊那谷がつながるそうですよ」‥‥ふーん、そうですか、と気のない返事をしたのを思い出すが、いまになってみると、そのトンネルが中央自動車道の恵那山トンネルだったことに思い至る。
あれから40年、時代が変わってることを実感する。
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