霧の朝
■大津市雄琴北。かざみ公園から。上空はよく晴れていたが、東のほうに霧のようなカスミのような・・・。こういうときは短いレンズでは三上山がどこにあるか分からない。うんと伸ばしてアップする。山頂部だけが霧に浮かぶ。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真・188--------
三上山撮影開始・8
バイク騒動は前回をもって終了。最初どうなることかと思ったスポッと露出計にも馴れて、何事にも安全第一と、バイクで走り回っていた。
昭和52(1977)年10月9日、撮影開始から約1年がたっていた。この日初めて写真が撮れた。
私が写真を始めたのは1955年だったから、三上山を撮りだした1977年は、私自身のが写真を撮るようになって20年以上が経過していた。当然写真は撮れると思いこんでいた。しかし撮れなかった。本当にとまどった。撮れたのは左の写真だけ。しかしこれも撮ったのではなしに偶然に写っただけ。これにしてもいましげしげと見るとバランスが悪い。
そんな1年が経過しての1977年10月である。シャッターを押した瞬間に、これは撮れたという感覚があった。左の写真がそれである。場所は近江八幡市水茎町。このあたりは、いま近江八幡市の産業廃棄物最終処理場になっているが、当時はまだ昔ながらの水路が張り巡らされ、収穫された米俵が、和船で運ばれていた。その和船が水路の所々に止められ、一つの絵になっていた。下見をしたとき、これは夕日だと狙いをつけた。
その日、近畿地方は移動性高気圧に覆われ、雲一つない快晴だった。収穫の終わった田圃にうす紅色の秋の夕日が美しかった。イメージ通りの風景だった。わくわくしながらカメラをセットした。あとは太陽が比良山に落ちる少し前、秋の夕日が十分赤くなったところでシャッターを押せばいいのだ。三上山を撮りだして1年、カメラを手にしたときから数えて、22年目にして「写真を撮る」ということが初めて分かった気がした。
「自分でイメージを作れ」、「待って撮れ」、写真雑誌には、イヤというほど書いてある言葉である。「きょうは天気がいいから写真でもを撮りに行こうか」ではダメだという。これをいままで何度読んだだことか、しかしそれが分からなかったのである。
思えば長い道のりだった。この単純なことが分かるまでに、22年の歳月が必要だったのだ。
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■写真ステージ 「近江富士」 HP
朝のメルヘン
■大津市雄琴北。かざみ公園から。一昨日、「琵琶湖明ける」をご覧いただいたのと同じ場所である。公園の片隅に風見鶏をのせた童話の世界のようなあずま屋がある。散歩の休憩所にはもってこいの場所である。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真・187--------
三上山撮影開始・7
「これ2人やったら上がるのと違いますか?、クレーン使ったら、代金もらわんなりませんねん。手で上げたら代金いりませんやんか」。世の中には親切な人もいるもの。黙ってクレーンで上げたら商売になるのに、手で上げたらただでいける。その手伝いをしてやろうというのである。こともあろうに、サルベージの従業員が、である。
なるほど思っても見なかったが、そういわれるとそんな気もする。代金がいるいらないの問題ではなしに、物理的に2人なら上がりそうな気もする。溝の深さは1.5mは優に超える。しかし幅は1mそこそこ、両側に足をかけて十分またげる距離である。若い衆は持ってきたロープを手際よくバイクにくくりつけて、「そっち持ってくれますか」。打撲した両腿がいたかったはずだが、いまはその記憶もない。溝をまたいで「じゃ、いきますよ」。
軽くはなかったはずだが、思ったより簡単にバイクは地面を離れた。これなら行けるぞ、と思った。ロープをたぐるとバイクは上がってくる。バイクは手の届くところまで上がってきた。シメシメこれは行けそうだ。が、そこまでだった。
1mほどまたを開いて、両手は伸びきったまま、そのしたにバイクがぶら下がっているのである。手を折り曲げてバイクを持ち上げるほどの力はない。手は伸びたままである。いくら持ち上げても、最後の2,30cmが上がらない。反動をつけてよいしょと放り上げるほどの力もない。それをやっても失敗するにかぎっている。そのときは自分の身体もバイクもろともまた溝の底。ましてや、バイクの下敷きにでもなったときには・・・。
「やっぱりアカンな」、それでも若い衆はあきらめずに、「前と後と代わりましょか」ということで、チェンジコート。一からやり直し。そのたびにしずしずとバイクは上がってくる。しかし、最後の2,30cm、これがどうにもならない。庭師さんが石を動かすときのような、滑車と支柱があれば何とかなったのだろうが、結局はクレーン様にお世話になることになった。ものの5分ほどで何の苦もなくバイクは地上に鎮座した。
「すみません。代金いただかななりませんね。あとで請求書お送りします」。
前座の共闘がなかったら、自分の失敗を棚に上げて、「たった5分でXX円やで」と、モンクたらたらのところだが、この日ばかりは、代金の問題ではなかった。「いやいや、ほんとにありがとう」と、心からお礼を言ったことだった。
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三上山かすむ
■守山市新庄町。野洲川新庄大橋上から。ああ、例の川霧かと思われるはずだが、じつはこれ煙。近くの田圃の野焼きの煙が漂ってきたわけ。川を横断する高圧線に手をやくのだが、まさにこれは煙幕。うまく隠してくれた。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真・186--------
三上山撮影開始・6
置いてきたバイクをどうするか。どう考えてもクレーンで上げてもらうしか方法はない。目につかないところだとはいえ、いつまでも置いておく訳にはいかないから、一休みしてから、Yサルベージへ出かけていった。
「バイクを溝へはめたので、上げへほしいのですが」
「はー?、ちょっと引っ張り上げはったら上がりまっしゃろ」と、本気できいてくれない。20cmかそこらの道端のミゾと考えているらしい。それならワシでも上がる。こんなとこへ頼みに来んわ」とおもいつつ、
「深い溝ですね。1m50はゆうにある。」
「1m50?、そんなとこはどうして落とさはりましてん」と、首を傾げつつ、
「そんな話、きいたことないな、まあ上げてくれいわはるなら上げてもエエけど」
「ところで場所はどこですねん」
「びわこ学園の近くの・・・」
「おーいそこの、誰や、ちょっと来い。この人のバイク上げたあげたげてくれ。ミゾに落とさはったらしい」。
そんな大きな声でいわんでもエエがな。
若い作業員さんと2人、可愛らしいクレーンがついたトラックで現場へ。
「ここですか?、ご主人、なんでこんなとこへ来はりましてん」。
ききたくなる気持ちは分かる。しかし、いちいち説明する側に立ってみ。
「実は・・・・」、
「そうやろな、そうでなきゃこんなところへ・・」といいながら、ミゾをのぞき込んだ若い衆は、
「これ2人やったら上がるのと違いますか?」。
クレーンを持ってきたのに手で上げたら・・・とはまた不思議なことを・・・・
「クレーン使ったら、代金もらわんなりませんね・・・」、
当たり前やろう、だから頼みにいってるのやから。
「手で上げたら代金いりませんやんか」。世の中には親切な人もいるもの。黙ってクレーンで上げたら商売になるのに、手で上げたらただでいける。その手伝いをしてやろうというのである。
涙が出そうなありがたい話。この結末やいかに。
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琵琶湖明ける
■大津市雄琴北。琵琶湖を望む高台。仰木の里住宅地の一角だと思うのだが、町名は雄琴北ということになっている。大谷大学グラウンドの近くで、かざみ公園という名が付いている。「きょうはエエ天気ですなー」、散歩する人の口々の挨拶である。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真・185--------
三上山撮影開始・5
バイクのエンジンは何事もなかったように回り続けていた。日本のバイクはスゴイ。50CCのヤマハだった。溝に落ちてまだ回っとるのか、お前はアホかと悪態の一つもつきたかったが、そういうわけにもいかない。幸い身体も太股の打撲だけで、それ以外はどこにも異状はない。とにかくエンジンを止めて、バイクを起こした。バックミラーのねじがゆるんでぐらぐらしている以外異常なし。
カメラボックスはバイクの荷台に金属のツメで止めるように細工していたのだが、ツメが吹っ飛んで荷台からはずれ、そばに転がっていた。ふたが開いてカメラが転がったら、どうしようもなかったのだが、それもなし。堅く口を閉ざしてカメラを守っていた。さすが我が家の奉安殿。コンパネで作ったものだが、ワシの工作能力もまんざらでもないわい・・・。
安全を確認したら、さあどうして脱出する?。溝は手を伸ばせば上には届く。とにかくカメラボックスは上へ上げた。横で見ている人がいたら、得体の知れない箱が地の中からぬーと出てきたように見えただろう。しかし、人がいるような場所じゃない。だからこそ、そこで大腿骨骨折でもやっていたら、どうして発見されただろうと、後で考えてぞーっとした。前にも書いたように、起こしたバイクの荷台に立って、そこから地上へ出た。
バイクは絶対に持ち上げられない。現場へ置いておくしかしかたなし。カメラは置いておく訳にはいかない。何といっても我が家の家宝である。いま目方を量ってみると13Kgある。現場から我が家までそれを担いで約6Km、これは長かった。
帰ってボックスの中身を子細に調べてみると、やはり異状が起こっていた。家宝のカメラはピントグラスにひびが入り、レンズが1本作動不能。しかしこれくらいでよかった。
置いてきたバイクをどうするか。
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地を這う霧
■野洲市木部。一応木部としておくが、木部・西河原・比留田の三つが集まるところ。家庭菜園風の小さな畑の一角に面白い木があった。田を這うような霧がたなびき、消え残った灯りが潤む。三上山の右下霧の中の森が錦織寺。■ 穂高から三上山まで
--------わたしの山と写真・184--------
三上山撮影開始・4
カメラボックスの話が、バイクで溝に落ちた話になった。どこへいかなきゃならんという話しではないからまあエエか。その一部始終を。
何回も書いたように、三上山の撮影を開始したときの機動力は自転車だった。労力さえいとわなければ、時間をかければ理屈の上では琵琶湖一周でもできるわけだが、写真を撮るとなると、そういうわけにも行かない。
ある日の夕方、西の空がきれいに焼け出した。かねて目星をつけていた甲西町(いまの湖南市)菩提寺まで、自転車をとばした。我が家から現地まで約7Km。着いたときには夕焼けは終わっていた。もっともそのころは何も分からず、目の前に現れた現象だけを追いかけていた。事前に予測して現地へ行っておれば何でもない訳で、自転車だけに罪を負わすの卑怯なのだが、実際は自分の行動を棚に上げて、「やっぱり自転車ではねー」ということになる。
免許証を調べてみると、原付の免許取得が昭和52(1977)年8月ということになっている。それでも約1年近く自転車でやっていたことになる。そうしていつ頃だったか、溝に飛び込んだのは。多分ちょっと馴れてきて、横着をかますようになったころだろう。
場所は名神沿いの旧びわこ学園の近く、野洲駅と菩提寺をつなぐバス道の横。路側から5mほど離れて溝があった。バイクを止めるには格好の空き地で、溝に対してT字形につっこむ形にバイクを止めた。
撮影を終えて引き上げるとき、前輪の行く手に握り拳ぐらいの小石があるのに気がついた。ちょっとバックさせて、切り返して乗れば何でもなかった話である。そこで横着な気持ちが出た。ちょいとふかして石を乗り越えて回ればいいや。
石を乗り越えたバイクはア、ア、アというまにそのまま直進、溝に直角につっこんだ。幅1mちょっとの溝で、ご丁寧にもコンクリートの3面張り。バイクに足をかけたまま、向こう側の縁に両方の太股をしこたま打ちつけた。そして、身体を支えるまもなく溝にずり落ちた。
教習所の先生がいみじくもいった。「怪我は、我を怪しむと書く、怪我をしたり、事故を起こしたりすると、何でワシはあのときあんなことをしたのやろうと思う」と。溝の底に落ちたとき、まさにその思いだった。
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