2015年11月15日
飛行機雲

野洲市三上のいつもの場所。畑では大豆が茶色に広がっている。青い空には飛行機雲が2本。三上山上空は飛行機の通り道、音もしないからほとんど気がつかないが、注意して見るといつもどこかに飛んでいる。
飛行機雲を初めて見たのは昭和19(1944)年、小学校5年生の夏だった。雲一つない青空に何本かの白い線が見えた。よく見るとそれが少しずつ伸びていく。その先端にきらりと光る飛行機。飛んでいるとすればB29しかない。それはそれはきれいな風景だった。空襲警報が出ていたはずだが、怖さを忘れて見上げていた。
東近江市にある滋賀県平和祈念館で「空襲と疎開」展を見てきた。空襲はともかくとして、”疎開”については、どんな展示になるのだろうと多少野次馬的な思いもあった。展示するとしたら写真と文章しかないだろう。私自身も学童疎開の経験者だが、自分自身の記憶に残っているだけで、形をして残っているものは何もない。2,30年前に疎開についての学校から保護者への連絡文書(B4更半紙4分の1枚、ガリ版刷り)が出てきたが、それもどこかへ行ってしまった。結局は聞き取り調査しかないのだろう。事実それが主をなしていたが、文章は事情を知っているものが読むのとそうでないのとでは大きな差が出てくる。その点写真は強い。
そんな中で大阪から海津村へ疎開をしてきていた児童の生活記録写真が展示されていた。これがなかったら、今回の展示は苦しかっただろう。大阪の学校での出発式(校長の訓辞)、近江今津着(江若鉄道・いまの湖西線ではない)、寮到着から始まって、日日の生活記録。個人がカメラを持っていること自体が珍しかった時代、さらに物資の不足でフィルム自体が手に入らなかったそのころ。よほど恵まれた条件下にあったのだろう。引率教員中の誰かの撮影だろうが、どんな文章にしても表現できない、貴重な記録写真だった。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


Posted by 八田正文 at 09:21│Comments(0)
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