赤野井湾

地図で見ると「L」字型に見える赤野井湾。これは第2画に当たる水平の部分である。湖岸道路と並行に続いている。これは湖岸道路の琵琶湖側にある駐車場から道路へ出てきたところ。右側に見える森が芦刈園。あの森の中にアジサイが咲いている。長めのレンズを使っているので、見た目よりは大きく見える。
森でふさがれた向こうに三上山が見える。上半身だけが見える構図で、絵としてはつらいのだけど、幸い森が低くなる場所があって、左斜面だけを生かすことができた。入江は適度にカーブして奥行きもありまあまあの構図だが、これが精いっぱいのところだった。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


赤野井湾

赤野井湾といえばいいのか、赤野井の入り江といえばいいのか。木製の桟橋があってヨットが留まっている。マリンスポーツの基地というイメージである。漁港は湖岸道路より琵琶湖側にある。こちらがわでは入り江がL字型になっていて、森と森の間を三上山に向かって片方の入り江が伸びていく。右奥の森の向こうが守山芦刈園。今アジサイが最盛期である。
私が三上山を撮りだしたころは、5万分の1の地形図でも、このあたりは湿地帯、沼地で表現されているだけで、細かい道などは不明だった。ときたま撮影には来たが、現像が上がってきてから、撮影地を確認するすべがなかった。道が分からないのだから。もちろんこの写真は湖岸道路から。昔は琵琶湖上。写真に収めるなど考えられなかった場所である。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


構図のべんきょう

守山芦刈園から入り江を挟んですぐ北の田んぼである。赤い建物が目立つ。まさに万緑叢中紅一点。三上山とその赤を適当に組み合わせた。電柱が何本かあったので、もうちょっと隠そうかとも思ったが、あまりにも端へ行きすぎるし。まそこそこで・・・これが標題写真。とよく見ると、菩提寺山(三上山の右)と木立との重なりが何とも芸がない。これはアカンな。
農道をもう少し右へ。それがこの写真1。木立と赤は左へ動いたが、白い建物が2つ見えて来た(2つあるうち、左の背の高いのが成人病センター)。
もうちょっと動く。写真2。成人病センターとその右の建物。両方とも全部見せるのも芸がないし。そうかといってセンター1つだけ見せるのも妙なものだし。
もうちょっと。写真3。赤が大きく離れてしまった。これを捨てるのなら、右はこれで収まるが。また何かのときに、勉強しなおします。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


戦後70年

水口教室の高田さんから東京土産だといって、新幹線車中からの三上山の写真が送られてきた。見れば我が家のすぐ横を通るときの写真だ。左に見える農道のガードをくぐって200mほどのところが我が家だ。ということで今日の標題写真に借りることにした。
高田さんは、彦根を過ぎたあたりからずっと気にしていたけれどなかなか見えない。運転席からだと見えるかもしれないが、客席からでほとんど見えないという。地図を見るとほとんど直線的に三上山に向かって突っ込んでいく感じで、我が家の近くでやっと横へ出る。そこで三上山からの距離が1.8Kmぐらい。だけれども時速200Kmを超えるスピードで突っ走るから、あっという間に通り過ぎてしまう。わーッ、出てきたという感じで瞬間的にシャッターを押したはず。そこがたまたま我が家のそばだったということだろう。もっとも、新幹線の車中から撮るとすればここしかないという場所ではあるが。
もう1枚、野洲川鉄橋から。トラス橋だから厄介だ。連写にしても当たるも八卦。トラスなんかなかったよという顔をして写っている。すごい。これはボクが下から撮ったもの。この斜めの棒の間から撮るのだから、これは大変な技だ。
戦後70年という。あのころの鉄道はひどかった。昭和30年ころの山行き列車。なにがどうなってんのやろね。なんせもう、むちゃくちゃだった。今の鉄道はすごい。とにかく車内でステテコ一丁になるオッサンがいない。みんな紳士になった。ホンマ、これはすごいよ。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


戦後70年

何やこれは。先ほどからなんとなく気配は感じていた。でもびっくりした。大きな会社の従業員用の駐車場ならこれ以上のものも見たことはある。しかしここは日野川の河川敷である。こんなところにクルマがあってはいかんというわけではないけれど、とにかくこの風景にはびっくりした。
いうまでもないグランドゴルフ大会である。見事なグリーン、プロ顔負けのグランド。一昔、ふた昔前なら、こういう風景には必ず腰の曲がったオジイチャンや、背中が丸いオバアチャンがいた。しかし今はそういう人は見当たらない。色とりどりとまでは言えないものの、しゃきっとした服装で、背中もピンと伸びている。まさに紳士、淑女の社交場である。もう1枚おまけ。
戦後70年だという。この人たちも70何年前は小学生だった。
・・・僕は軍人 大好きよ、
今に大きくなったなら、勲章さげて剣さげて、
おんまに乗ってハイドウドウ・・・
世間がきな臭い。
・・・デジカメ持って脚もって
クルマに乗って、はいどうどう・・・
と、やっている間に、気がつけばここにオスプレーが並び、人間が乗らない爆撃機がドカーンと爆弾を落とす。そんな時代が再び来なければよいが。昭和23年、中学3年生。『あたらしい憲法のはなし』。「日本は戦争を放棄した。日本は戦争をしないんだ」。聞くほうもしゃべるほうもひもじい時代だったが、そこに光があった。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


日野川河川敷

日野川は野村橋から下流の1.8Kmほどは直線だが、それから上流は結構蛇行している。たとえば名神より下流について、河口までの直線距離は14.5Km、同じ地図で流路沿いの距離を測ってみると18.7Kmだった。測ってはみたもののこの数字から何を読み取るか。ああそうですか思うだけで、直感的に何かを読めといわれても…。ということで、同じ区間内で、流路の直線距離だけ計算してみた。合計7.9Km。名神より下流の話だが、全流路の42%が直線というのだから、カーブしている区間の方が多い。
ここもその蛇行区間。レンズをちょっと長くしているから、肉眼で見るよりはきつく見えるていることはたしかだが。画面を横切って見えているが大畑橋。私が三上山を撮りだして間なしのころに、一度改修工事が行われ、木が伐採され土が丸出しになって風景が荒れた。それから30数年、今また河川敷に樹木が勢いを増している。こうして外野席から見ているだけでも河川整備の困難さを実感する。ちょっと手を抜くと人間の負けになる。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


桜並木誕生

梅雨空で遠望が利かない。といいながら気がついたらいつのまにか野村橋へ来てしまっていた。見通しの点から言えば、この日はがここらが限界だった。野村橋は日野川に架かる橋で、湖岸道路の日野川大橋を1番目として、この橋は上流へ2番目の橋。もう少し上流の小南や比留田あたりでは左岸が野洲市、右岸が近江八幡市ということで市境になっているが、このあたりは左岸、右岸共に近江八幡市、話がややこしい。
右岸を上流側へ折れた。川全体が右岸を内側として半円を描くようにカーブしているところで、下流側から見ると右岸外側の農地を前景にして見る形になる。カーブしていった先に、大きな欅?の木があり、以前はその横に桜の木が2,3本植わっているだけだったが、今回行ってみると可愛い木が並んで植えられていた。後でわかったことだが、野村橋からさらに上流の大畑橋まで約1Kmに渡って植えられていた。まだまだ幼い木だが、きのう、きょう植えられた様子ではない。当然もっと小さかったときも見ているはずだけど、今まで気づかなかったということだろう。花をつけるときが楽しみだ。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


左岸堤防跡

昨日の場所から700mほど下流である。左岸堤防が残っていたが、こちらは撤去されて駐車場などになっている。この写真は去年(2014年)の3月9日の撮影。駐車場工事中の撮影である。もう1枚、これは今日の標題写真をトリミングしたもの。どちらも視野が狭いので同じ場所からということはわかりにくいが、遠方に見える駐車場のライトの並び、およびその左に見える大きな瓦屋根から同じ場所からということが分かる。
去年の写真には堤防への上がり口がはっきり写っている。画面右に白い上着を着た男性が写っており、高低差が分かりやすい。標題写真のアップでは木が茂っていて道路標識が1本見えるだけ、そこのところはわかりにくい。来年の3月ごろ、もう一度撮り直すとそこのところがはっきりするだろう。そんなこと別にどちらでもいいじゃないかといわれそうだけど。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば

