秋の深緑

野洲市西河原(旧中主町西河原)から竹生口交差点へ向かう県道151号沿いである。画面の右外側は県道。写真はその県道の歩道から撮っている。クルマで走っていて気にはなるが、交通量も多く、すぐに止められる場所もないので、ついそのままになってしまう。そんな場所である。このときも昨日見てもらった矢印のところに車を止めてそのまま歩いてきた。奥のハウスの屋根が気になるが辛抱するしか仕方がない。
畑のふちに木が3本植わっている。左に1本、右に2本。その間に小さいのがもう1本あるが、それを入れると4本ということになる。数年前、いや最近は月日が早い。ひょっとしたらもう10年になるかもしれない。右側の2本のうち、左側の柿の木に夏の終わりごろ虫が大量に発生した。右端の木は何の木かわからないが、すくなくとも柿ではない。そちらの木には虫はつかない。柿の木は見る見る食い尽くされて冬の木さながらの裸になった。
どうなるのかと気にしていたが、しばらくすると新芽が出だした。秋、他の木が色づき始めたころ、柿の木だけは新緑の葉をつけていた。なぜそのドラマを撮っておかなかったのか。いまになれば悔やまれる。そばを通るとき横目で見る。気がつくのだが止まるところがない。ついそのままになってしまう。引き返せばいいじゃないか。あとになってそう思うのだが。
写真ステージ 「近江富士」
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矢印

野洲市比留田と八夫を結んで広い田んぼの中を直線道路が走っている。県道48号である。将来的には野洲川を渡って近江大橋からやってくる湖南幹線につながるのだろうが、今のところその気配はない。ここは野洲市八夫。その48号が、希望が丘からやってくる道路にぶつかるところところで、左右どちらかへというでかい矢印が立っている。その左向きだけをアップすると、矢印のいく手に遠く三上山が・・・という絵になる。
方向から考えて朝日が美しいはずである。しかし、いつのまにか昼飯を食ってから、ほんじゃ出かけようかというのが習慣になってしまった。行き当たりばったりの時間では太陽がもう裏へ回ってしまっている。田んぼがイネなら朝日のうちにという意欲もわくが・・・。つまらんいいわけである。
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いつまでもあると思うな

いつまでもあると思うな親とハス。・・・・ボクはここ数年ハスの写真は撮っていないけれど、撮影した人はゴマンといるはず。夜明けからやいのやいので押しかけた湖岸もいまは無人。広がりだしたオオバナミズキンバイの中でアオサギが餌をあさっていた。昨日だったか、新聞に県と市が合同調査したと報告されていた。それによると、とりざたされていたカメやザリガニによる食害のあとは見られなかったとか。このあとも採取した茎や根を分析し、県外の専門家にも協力を求めながら調査を進めるという。
琵琶湖大橋が見える側には、ほんのわずかに残っているのが見えるが、湖岸道路に面した側では、半島の岬あたりにひょろひょろとしたのが2,3本残っているだけだった。一方、オオバナミズキンバイは、対岸の湖岸道路側にもその黄色が認められる。
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雌山が見える

大津市雄琴5丁目の湖畔。目の前に4本脚の構造物が見える。ところどころで見るような記憶があるのだが、何ものであるかは知識なし。その横を3人乗りの釣り船が通り過ぎていく。三上山を撮りだした30数年前には、まだ和船が残っていた。シルエットそものものに情緒があったが・・・。魚釣りに関してはこれ以上の知識なし。
さて標題写真に戻って三上山の姿を見てみよう。右側に雌山が見えるが、ちょこんと寸づまり。堅田から見たときにはもう少し存在感があった。堅田でしっかり見えていたのが、雄琴で寸づまりになっている。もうちょっと南の坂本ではどうだろう。先ほどの和船の写真も坂本からだったが山の形ははっきりしないので、山手からの写真をどうぞ。三上山の姿を注意して見ると、雌山がなくなっている。
三上山を人の顔に例えれば、堅田から見ると横顔を見ているわけで、鼻筋がしっかり見える。雄琴から見ると斜め前から見ていることになる。そして坂本、もうちょっと南の西大津あたり。この方向から見たときには真正面から見ることになり、鼻筋は消えてしまう。
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子供の遊び

田んぼの中に小屋が3棟並んでいる。守山北高校の南西に広がる農地である。もうちょっと三上山に近い笠原町あたりからは、2本足の大きな電柱が見えるのだが、ここまで来るとそれもあまり目立たない。それをちょっと立つ位置を変えるとあら不思議、標題写真のように小屋が2棟になってしまう。2枚の写真を並べてみる。
2枚を見比べると三上山と遠くの集落や神社の森などは左右ほとんど変化ない。さらに言えば、三上山と菩提寺山の関係。雌山の右にすぐ菩提寺山が並んでいる。この様子は左右全く一緒。大きな違いといえば、左の方に見える電柱群、これが山に対して左へ移動したことと、農道が大きく見えるようになっただけ。これは2枚の撮影位置が、ほんの少ししか動いていないことを示している。
とごたごた書き連ねたが、要するに左の壁面の白い小屋の見え方。これがすべてを物語っている。しょうもない子供の遊びである。
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イネそよぐ

旧天神橋跡道路を通って明富中学の前に出た。明富中学という学校は戦後の一時存在したが、たしかその後合併したりか何かで名前が消えていた。そしていつごろだったか現在のところに新設された学校に、その名前が復活したはず。先日、GoogleMapを見ていて「旧明富中学校跡」とあるのを見て、へー、以前の明富中学校はこんなところにあったんだと思った記憶がある。確か立田町周辺だったと記憶するが、今いくら探してもそれが見つからない。夢ではないはずだが。
しかし、なんとも寝覚めが悪い。ひょっとしたら別の地図だったかもしれない。と、いつも使っている昭文社のライトマップルを調べたら、なんとそれに載っていた。立田町集落(標題写真の遠くの集落)のど真ん中、三宝寺という寺院のすぐ近くだった。とりあえず一件落着。しかし、この話は今日の写真とは何の関係もない。写真が撮ってあったので使っただけで、何も書くことがない。
別に強い風が吹いていたわけではないのだが、イネのそよぎがつつっと走る。ビデオだとその動きがとらえられるのだが、スチル写真ではどうにもならない。1枚写真でイネを動かす手法がないものか。
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菩提寺山

明富中学の近く、旧天神橋跡。このあたり旧南流は左岸、右岸ともに形を残している。いまは橋は撤去され、平地を通る道路が堤防をくぐるようにクロスし、堤防上の道路には橋がかかっている。レンズを伸ばしたので、その部分は写っていないが、肉眼で見ると眼前に河川敷を横断する道が見える。右側に見えるあずま屋は河川敷跡の遊歩道に沿う。その奥の森は右岸との間の河川敷に生えているものである。
今も書いたようにレンズを伸ばしたのだが、三上山の右に見える菩提寺山との重なりを写し取りたかったためである。他の場所では手前の色の濃い線のように、雌山がちょっと盛り上がってスーッと流れ落ちるのだが、ここでは後ろの菩提寺山が重なってさらにもう一度盛り上がる。それに意識が行ってレンズを伸ばしてしまった。目的と結果は一致しているのだが、付近の状況を説明するためには視野が狭くなってしまった。難しいところである。
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ランドマーク・続

昨日の写真より右へ寄った。三上山は右へ照明灯は左へ移動。ちょっと昔の写真を引っぱり出してきた。2013年11月、堤防の平坦化工事が始まったころの写真である。工事が始まてはいるが、堤防そのものは昔のまま。木が切られて見通しがよくなった。三上山は高く見え、照明灯は木の左側、奥の民家と重なって見える。 もう1枚、2014年3月、かなり工事が進んでいるように見えるが、道路そのものが写っていないのでどうなっているかははっきりしない。でも、照明灯のてっぺんと奥の山との関係は2枚ともよく似ている。道路そのものは大きな変化がないように見極められる。
これに比べて標題写真は照明灯の先端が奥の山より随分高く見える。言うまでもなく撮影位置が堤防より低くなったことが見て取れる。夜明かりがつくかつかないかは別にして、この照明灯は私にとっては風景を見るための基準となる大切なものである。
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