帰り道

いつの間にか今年も大晦日。年の終わりに当たって、電線も終わりになるという嘘みたいなほんまの話。場所はどこでもいいんだけど、気がついたのがつい最近・・・・。見えている高圧線鉄塔のところで電線が終わりになっている。考えて見ればけったいな話。電線が途中で終わりになる。そんな馬鹿なことってあるのやろうか。
ときどき、「この先行き止まり」という道があることはある。ほんまかいなと行ってみる。ホンマならUターンして戻ってくるしか手はない。この「Uターン」というのはすごい能力だと思う。それが水だとそういうわけにはいかない。アカンかったら返ってくるなんて器用なことはできないから、あふれて洪水が起こってしまう。
まあ、そんなことで電気も回路(サーキット)が形成されて(つぎからつぎへと引き継がれて)最後は出発点に戻ってくる。これで初めてまともに動くはず。途中で電線が終わりになって何の意味があるのだろう。これはわからんね―、ホンマに。車庫から出た電車やバスも帰ってきてナンボ。もう帰ってこんでもええと思っているぐうたら亭主でも、やっぱり帰ってきてもらわにゃ。帰り道がいらんのは鉄砲のタマだけ。
写真ステージ 「近江富士」
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目印のない風景

30数年前、かれこれ40年近くになる。三上山を撮りだして2,3年目の夏。入道雲を追いかけてここへ迷い込んだ。あの沸き立つ雲をどう撮っていいかわからなかった。計算してみると40歳代の前半だったことになる。20歳で初めて自分のカメラを手にして20年余り。まだ入道雲をどう撮っていいかわからなかった。
その場所だか、これが何ともわかりにくい。琵琶湖大橋取付道路沿いの速水小学校。その下流の方、ずーっと続いている旧野洲川南流跡左岸堤防上の道がふとなくなる部分がある。ないものの場所を説明するのが世の中でいちばん難しい。そこのところである。私はいまも取付道路の方からは行けない。右岸の方から逆に回りこんでいく。そうして撮影はするのだが、そのあとがまた一苦労。撮影位置が地図上で決められないのである。大体この辺だ、あとは適当にしておけやということになるのだが、そうはいいつつ、やはりきっちりした場所を残しておきたい。
こういうとき私がやる手は、三上山と現在位置を直線で結び、その線上付近に見えるものを探す。それが2,3種類あると、それらを比較して案外解決策が見えてくる。いまの場合は、先日見てもらった明富中学校の8本のメタセコイヤ。細かいことはきりがないので止めるが、とりあえず2枚を比較したものを見ていただこう。Cが標題写真。Dは予備に撮ったもう1枚のもの。この2枚でより左から撮ったのはどちらだろう。そして、より遠いのは?。昔だったら山が小さいほうが遠いに決まっていた。ズームがある今はそうはいかなくなった。いまの場合だと、右に見えるビニールハウスの見え方から探っていくしかない。
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アホな遊び

信号の下へ三上山がはいこむというのか、山の上に信号がかぶさってくるというのか。いずれにしても赤しか撮れない。青信号のときは止まらないのだから。野洲市行畑の地蔵さん前の信号。通るたびにいつかは撮ってやろうと思っていたが、チャンスがあるようでない。琵琶湖方面から帰ってくるとき、2回に1回ぐらいは必ずここを通る。わりに確率は高そうだが話は簡単ではない。まずその赤信号にトップで飛びこまなければならない。そのとき手の届くところにカメラがなければならない・・などなど。
それと基本的にもう1つ条件が。こういう状態の位置で止まれること。交差点は好き勝手なところで止まれるわけではい。この場合も、信号機に対して山をもう少し低くしたい。かなり無理をして前へ出たがこれ以上は無理だった。そして最後の難関、電球がLEDだから確率2分の1。1枚で間違いないとは言えない。このときは3枚撮った。不思議に3枚とも写っていた。宝くじ買いにいこかな。
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南流跡右岸

同じ場所で左岸から右岸へ渡ってみた。川が現役だったころはここにクルマ1台通れるだけの橋(天神橋)がかかっていた。写真は公園化が進む中、最後まで残っていた天神橋。この橋を取り去るとほぼ昨日の標題写真に近くなる。樹下神社の森と三上山との関係が両者同じはず。
今日の標題写真はこの天神橋を渡って対岸から見たところ。もちろん今は橋はないから、いったん下へ下りて登りなおしたわけ。樹下神社の森がはっきり見えるようになった。左岸の堤防上は完全な遊歩道だが、こちらはこの間だけ一般道と兼用で車が通る。たえず注意していなければならないが、高い分だけ展望はよい。・・・・高いところは見通しがいい。当り前やないか。しょうもないこと書くな。
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南流跡

一週間ほど前の撮影で、いまはもう黄葉は散りつくしているかもしれない。地球の森、旧野洲川南流左岸堤防上からである。すぐ目の前の水路は旧野洲川廃流跡。水は流れてはいないが、こうしていつもたまっている。川の跡というものはこういうものらしい。
対岸は右岸堤防跡である。画面右上の裸の大木群がかつての堤防林の残党。あとは公園化されたのちの造作である。堤防の奥、三上山の左半分と重なるように見える森は、国道477号・浜街道沿い、水保町集落内の樹下神社かと思われる。三上山の右、雌山よりちょっと高く見える山が菩提寺山。25日の標題写真で右の屋根上に見える山である。このあたりから見る独特の重なり方である。
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不思議な木

オスプレーがやって来たのかと思う。妙な形の木だ。旧野洲川北流左岸の外側にある小さな墓地に立つクロガネモチ。もともとは結構背の高い木(2011年9月)で、北流跡道路からも一つの目印になっていたし、右岸の乙窪・比江あたり(同)からもよく見えた。
ところがこれだけの木でありながら、三上山と並び立つ写真となるとほとんどない。どうにもポジションがとれないのである。とりあえずデジタルになってからの分を探してみたが、ほとんどない。つぎの写真などは、上半分がなくなっているのに気付き、場所も天気もなりふりかまわずとりあえずの1枚というところである。
フィルム時代ならあるのか。調べてはいないが、多分ないだろう。旧堤防のすぐ外側にあって、遠望などもってのほかという状況だったはず。乙窪・比江あたりから見えるようになったのは堤防がなくなってからの話である。そう考えてみるとこの木が広く人の目に触れていたのはどれぐらいだったのか。そう長い年月ではなかったはず。
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山の大中小

うっとうしい話を何度も申し訳ない。しかし昨日、一昨日の話を読み飛ばされた方も、きょうの話はぜひ読んでいただきたい。大事な写真の話だから。
まず23日の写真(A)と今日の標題写真(C)とを、比較してもらいたい(2枚並べて表示)。きょうの写真Cの方が三上山が高く大きい。右の方に菩提寺山のてっぺんまで見えている。では、23日の写真(A)と、この写真(B)ではどうだろう。写真Bの方が山が大きいはず(2枚並べて表示)。結局、23日の写真Aがいちばん小さく、写真B、写真Cの順に大きくなっている(3枚並べて表示)
それに対して「屋根光る」は、山を高い屋根に乗せず、左へ持ってきている。これを撮った30数年前には、いまの中学校前の道路はどんな状態だったか何の記憶もないが、何でもない普通の道だったのだろう。そこでウエストレベルファインダーを上からのぞいて撮影した。カメラの高さは大体110cmから120cmだったはず。いま比較している4枚ではこれが一番低い。あとの3枚はいまのデジカメで普通に立って撮影。地面からの高さはだいたい160cm余り。山はカメラの位置が高いほど高く写る。「屋根光る」のときはこれ以上高くできなかったのである。
じゃ、今回のA,B.Cの3枚についてはどうか。
まず写真A。明富中学校前の道路から田んぼのふちに立ってただ何も考えずに撮った。
次の写真B。道路を横切って田んぼのふちから後退。歩道を越えてさらに中学校のフェンスにくっついて撮影。バックした距離は10mそこそこ。カメラの高さは変わっていないけれど、バックしたことでこれだけ山が大きくなる。
写真C。中学校へ無断侵入して体育館の前まで、その屋外出入り口の階段上から。写真Aの位置から見ると30mほどバックして1.5mほど高い位置に立った。
バックしたら、山は小さくなるのではないか。その通り。遠ざかれば小さくなる。当り前である。そのとき(体育館前から)のオリジナル写真。これらの写真で、家の大きさが同じになるようにトリミングする(本来はレンズの長さを伸ばすのが正論。トリミングは邪道。)と山の大きさが変わって見えるという話。
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不運な写真・3

「屋根光る」を撮った時には明富中学はなかった。しかし、今の私には中学校がなかったときの記憶はない。校舎はなかったが、道路はあったのだろう。いまの校舎の様子。小さくて分かりにくいが、中学生が自転車で行くのが校門前通りである。前の集団の向こう、大きなメタセコイヤの右に例の木が8本並んでいるのが見える。場所を変えてもう1枚。メタセコイヤは校舎と並んでいる。しかしこれは「屋根光る」とは無関係である。
それよりも大きな問題がある。いまの明富中学校の前から見て、遠くに見える民家が国道477号沿いの立田集落、そこまでの距離が850mほどである。それに対する幅が約300m。電柱もない広い農地であった。”であった”というのは、いつのころからかその農地の中ほどに、左右に100mほどの長い建物が建ったのである。これには参った。どうしようもない。すくなくとも左側の幅100mに関しては完全にアウト。残り200mがかろうじて撮影可能範囲ということになる。ところがその200mのうち、右半分は手前に水保町の集落が見える。となると幅300mの農地のうちカメラを向けられるのは真ん中の幅100m ほどだけである。
こんな面倒くさい話をきっちり読んで下さる方はおられないはずだが、もし1人でも読んでいただけたとしたら、真ん中の100mだけが撮影可能範囲であることに納得してもらえるはずである。現に今日の標題写真はその真ん中の100mを通してみた風景である。ここまではどこにも間違いはない。間違いは”だから「屋根光る」の風景は、その変化の中で消えてしまった”と考えたことだった。それは右側の水保町の集落の中にほとんど変化もなく残っていたのである。
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