モクレン

野洲市さくら墓園駐車場横に咲いているモクレンである。1990年、この墓地が完成した年だったか、道路脇に植えられたモクレンが清楚な花を咲かせていた。まだ周囲の木も少なく生け垣などもなく、ローアングルが自由に使えた。その後、周囲の木が成長し、それらにとり囲まれてほとんど絵にならない状態が続いていたが、一昨年の秋だったか、付近一帯の木が剪定された。それによって風景が生き返えり、去年の春には最初のころのイメージに近い爽やかな花を咲かせた。
そして今年、どうなっているかと気にはしていたが、先週のやす教室で、Oさんがその写真を撮ってきた。何?もう咲いてるの?。うかつだった。今年の花は早いのは知っていたが、まさかそんなに早くとは思いもよらなかった。これだけ咲いてしまうと清楚もくそもない。それに右端の楠の木かな、これが暑苦しい葉をつけて・・・また絵を作るのに難しくなりそうである。
写真ステージ 「近江富士」
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淡墨桜

川田大橋左岸畔に他の桜より一足早く、白く上品な花が咲いている。(もう1枚)。シャチョウがここの桜は早いという。そういえば確かに他よりは早い。でも今のいままで、ワシは気がつかなかったけど。見れば、道路に面したところにきれいな案内板が設置されていて、「淡墨公園」とある。(原本では墨にサンズイがついているが、そんな字があるのかないのか、探せばあるのだろうが、「墨」でご勘弁を)。へえ、やる気やな。公園の説明文としてはちょっとくどいけれど、設置者の熱意の表れだろう。
実は、ここからちょっと下った川田町喜多の児童公園に薄墨桜がある。それが弱ってきたので岐阜県根尾谷の淡墨桜保存会に教えを乞うた。それが機縁となって保存会から「樹齢1500年薄墨桜の実生苗木6本」の贈呈をうけ平成7年に当地に植樹したもの、という。なるほど植樹してから20年にもなるのか。何でもそうだけど、物事は簡単には成らない。
根尾谷の淡墨桜。私は人混みが苦手だから花の時期は知らないが、美濃地震の根尾谷断層を見に行ったときにその姿だけは見てきた。やっぱりすごい木だった。荘川桜もすごいが、この木の重厚感には圧倒される。その木の子供か、孫か知らないが、実生の苗から育てたものだという。風格のある木に育ってほしい。
三上山との組み合わせは難しい。バリアングルファインダーを使ってのハイポジションである。残念ながら思い通りの位置には入っていない。
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雄琴川デルタ

まず昔の写真を2枚見ていただきたい。どちらも撮影は1970年代後半。1枚目。細い川が琵琶湖に流れ込む。堤防も何もないただの小川に板の橋。両側はどちらも畑だった。これが雄琴川河口だといっても、いまの川をご存知の方には到底信じてもらえないだろう。位置的なアリバイは三上山から右に伸びる十二坊の形以外にはない。もう1枚。これは国道161号、山下湾沿い、いまのアークロイアルボートクラブあたりから撮ったもの(当時はもちろん何もないただの湖岸だった)。ヨシに覆われた岬の向こうに三上山が見える。2枚とも山の形は同じである。
その後。雄琴川の改修が行われた。堤防がかさ上げされた分、岬そのものの分厚さが増した。これが現在の姿。民家の棟に届こうかという天井川に比べれば低いものだが、それを通して向こうの山を撮ろうとする者にとってはこの分厚さが苦しい。標題写真では三上山の右が見えにくいが、それ以外の3枚は、すべて山の形は同じはずである。
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カモが2羽

昨日の場所から少し北へ移動。以前は何とかいう不動産会社の支所が建っていたが、いまは幸福の科学琵琶湖西支部に変わっていた。入り口はオープン。ボクの勝手な解釈だけど、入り口に守衛さんがいたり(宗教団体の意識の問題で、守衛さんそのものが悪いというわけではありません)、門を閉ざしたりした宗教施設があれば、それはニセモノだと思っている。「どうぞご自由にお入りください」、これが宗教施設の本来の姿勢のはず。と、勝手な解釈をして入らせてもらう。
裏へ回ったところで、羽音が聞こえるほどの目の前をカモが2羽通り過ぎた。オイオイ飛ぶならちょっと声をかけてから飛べよ。自分は無断で入って来たのに勝手なものだ。と反省していたら、そいつらがぐるっと回って戻ってきた。今度はちょっと遠くだ。もうちょっと近くを飛べばいいのに。
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雄琴川河口

久しぶりに国道161号を堅田から南へ走った。ほう変化しつくしたと思っていた風景がさらに変化していた。雄琴川河口近く、釣り船でにぎわう山下湾を越えたあたり、ここだけは変わらないだろうと思っていたところに、新しい大型商業施設ができていた。建物の間から肩身の狭い三上山が見えた。それが標題写真である。”変わらないと思う”のが年寄りの偏見で、変わって当たり前だったのである。
山下湾を抜けると右側に1つの蔵が見えてくる。これが目印だった。その蔵はいまも見えるが、これを越えると左側に雄琴川のデルタが広がってくる。1970年代の後半、雄琴川が改修される前、堤防もほとんど目立たず琵琶湖まで水平な稲田んぼが広がっていた。そこに裸の木が点在する冬の風景は秀逸だった。そのころまだ40歳代前半、若かった。冬の日曜日、暗いうちに家を出て、ここへ通うのが楽しみだった。そのうちの1枚である。その日、低かった雲がわずかに明るくなっただけで、いつまでたっても太陽は昇らなかった。腹たちまぎれの1枚だが、いまとなっては懐かしい。
昔の写真では、右側に十二坊の尾根が水平に伸びている。山の形で場所を確かめたいのだが建物が邪魔をする。さいわい裏へ回ると広い風景がまだ残っている。山の右に大きな木が重なってしまったが、山の形は大差ないようである。
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帯にもタスキにも

湖西線・おごと温泉駅。ホームの屋根と対岸を合わせ白い琵琶湖とホームの空間を合わす。そこへホームで待つ人をシルエットで・・・というイメージを作った。もちろん三上山は屋根の上へ出す。実際に行ってみるとそんなに単純なものではない。屋の上にも何本も電線が見えるし、ホームで待つ人はいない。もっとも、人はいるときに行けば解決するのだが、電線はどうしようもない。それに屋根と対岸が合わない。撮影場所の高さの問題だ。もうちょっと高い位置がほしい。
別の場所を探した。今度は高すぎた。三上山は上に出たが、ホームの空間がごちゃごちゃした民家の屋根と重なる。それに琵琶湖の青さがイメージに合わない。それなら一層のこと、もっと高いほうがいい。ということで探したのが標題写真。どうしようかと迷っているところへスーパー雷鳥がやってきた。ホームに人は1人いるのだが、帯どころかタスキにもならない。
昨日の答・信号待ちしているバスが消えるはずはない。バックするはずもない。3枚目の写真は、オバさんが渡りだす前の写真。バスが黄色のクルマの後ろへ着く直前。その先端がわずかに見える。だから答えは、「バスが到着する直前」。ご免ね、しょうもない話で。
でもあるんですね、こんなけったいな信号が。片方は白熱灯、他方はLED。現場で再生・確認した時、訳が分からないかった。
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クイズ

ある日あるところで、一人のおばさんが横断歩道を渡っていました。クロスする道路の信号は赤(1)。当然自分のほうの信号は青のはず。クロスする道路にはどちらも2台の車が停車しています。極めて規則正しい、交通ルールに従った穏やかな街頭風景です。
このあとおばさんは一歩進みました。おばさん側(右側の)の信号がほんの少しだけ暗くなりました(2)。そうしてオバさんは無事横断歩道を渡り切りました。オバさんが渡り終わると同時に右側の信号(3)は消えていました。ここでクイズ。問題は「なぜ右側の信号は消えたのか」・・・だと思ったでしょう。ハハハッ、そんな問題はこの日乗を読んでくださる方にはもう古い。ホンマの問題は「写真(1・2)で右側に見えていたバス(黄色のクルマの後ろにいたバス)はどこへ行ったのでしょう」。答えは明日のこの欄で。
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残った柿の木

ひょっとしてあの木も切られているのではないか、姿を見るまでは落ち着かなかったが、姿が見えたときにはほっとした。昨日の写真で、三上山の左裾に見えた大きな森が右へ移動していることから分かるように、昨日の場所よりは左へ寄ったことになる。どういうことかわからないが、旧北流跡と乙窪農地との段差が大きくなる。この写真右端のように擁壁が作られるほどの段差である。その間の距離は1mほどだから、下へ降りてしまうと写真にならない。難しいところで、結局は上から撮るしか手はない。
普通に考えるとワイドで撮るべき所かなとは思う。生えている場所、全体の立地条件などを考えるとこのほうがとも思うのだが、ここへ来るとレンズを少し伸ばしたくなる。根っこの部分も見えないし、下の道なども見えなくなるが、ここはこの長いレンズの方を使いたくなる。いつもなぜかなと自問自答するのだが、多少ながら後退の自由がきく、旧堤防跡地の広さのせいかなと思う。
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