ポプラ逝く

昨日の台風もこともなく過ぎた。被害地の方々のことを考えると喜んでばかりもおれないが。写真が品切れになったのでとりあえずのものをと、ふと思いついて烏丸半島へ出かけた。つい先日、新聞だったかTVだったかで例の”ぐーたら風車”が撤去されることに決まったと報じていた。目的はそっちだったのだが、ついついハス畑の方へ足が向いて、何の気もなく対岸のポプラにカメラを向けた。・・・と、おいちょっと待てよ。歯ぬけになっているし、右の2本は傾いている。こんなのではなかったよなー。
帰り、対岸の山賀パーキングへ寄ってみた。やはりポプラは倒れていた。切り倒されて処理されていたから、昨日のではない。先週の21号でやられたのだろう。何本処理されていたか、全部で5本だったか、6本だったか。ひょっとしたらそれ以上だったかもしれない。
この写真は、昔、といっても2009年2月の撮影。あいあい滋賀に連載したうちの一枚。解説文で次のように書いた。
・・・ポプラというと、近江八幡市水茎町の県道沿いの並木を思い出す。一直線数100mに渡って連なる様は見事である。しかし、ある年の台風で木が傾き、すべて上半分が切り払われ、一時悲しい姿になった。写真のポプラは湖岸道路山賀パーキングに植えられているものだが、琵琶湖からの風も強かろう。ある日、気がついたら、下半分だけが残っていたということがないよう願っている。・・・
まさか10年を経ずして、これが現実になろうとは。
写真ステージ 「近江富士」
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天保義民碑

きのう見てもらった「新海道」の碑、天保義民碑広場への登り口に建っている。そのまま解釈するとその道が旧街道かと理解してしまう。実はこの碑はもう少し上流の旧横田橋左岸(今はない)にあったものが、ここへ移されたのだという。土に埋められた碑が動くはずはないと考えがちだが、このような例はいくらでもある。注意してかからないととんでもない失敗に結びつく。
だらだら坂を登って義民碑広場へ上りつくと、例のイノシシゲート。細かい文字が並んでいる。よっぽどイノシシに恨みがあるのだろうと読んでみると”震度5以上の地震で倒れる恐れがある”・・・云々。そんなこと書かんでも大地震が来たら誰でも逃げるでしょうが。書いた本人は大地震が来たら、びっくりしてこの碑にしがみつく人間がおるとでも思っているのだろう。この手の注意書き(放送も含めて)が減れば、もう少し世の中かが静かになるのだが。天保義民碑をどうぞ。
もう随分前になるが、ここから三上山が見えないかと訪ねてきたことがある。木が多くて見えなかったが、それはいまも同じ。しかし、その広場から斜面をトラバースする遊歩道ができていた。それを100m足らず歩くと、木が途切れて、例の山が2つ並び立つのが見えた。画面左端の白い大きな建物が三雲駅の駅舎である。
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県民花の森から

2012年秋から始めた「野洲川流域峠道探訪」。国道8号の野洲川大橋畔からスタートして、北周りで武平峠に達したのが昨年秋。もう一度野洲川大橋に戻って南周りでいま、三雲の荒川流域を終わったところ。このあと甲賀・伊賀の県境を尋ね歩いて鈴鹿峠へたどり着けばとりあえずの完結ということになる。最後は石部から鈴鹿峠まで旧東海道歩きを考えているが、いよいよ時間(足腰)の問題が立ちはだかってきた。
そしてさらにもう一つ大きな問題、これは初めから分かっていたことだが、野洲川流域の南半分(甲南町・甲賀町)の水を集める杣川、これが三雲の上流で野洲川に合流する。そしてその川沿いに走る杣街道。いまのJR草津線沿いのルート、これを訪ねなければならない。きょうはその初日である。
杣街道は、壬申の乱のころからの古いルートだが、鈴鹿を越える東海道に対するルートとして明治20年ごろから整備がすすめられ、「新海道」と呼ばれていた。その始点を示す碑がいま三雲の天保義民碑の近くに立っている。あたりは県民花の森として整備されている。そのそばから振り返れば市街地の向こうに三上山が見えた。手前は三雲駅のホームである。
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現場証明

野洲市行畑から国道8号・三上へ向かう旧県道504号を対称軸として、三上山に向いて左側が一昨日標題写真の撮影場所、右側がきょうの写真(10月23日撮影)の撮影場所。パワーショベルの奥に見えている電柱の列が旧県道、左に例の倉庫が見えている。目の前の堀では発掘調査が行われていたのだろうか。前回の台風21号でたまった水が残っている。右に見える高圧線鉄塔が、いつも定点から撮るときには、山の左斜面に重なって立っている。それを見てもおよそのこの場所が想像してもらえるだろう。
この場所にはその昔、高さ1m余りの盛り土があって直径2cmぐらいの細い竹が数本生えていた。撮影は1978年11月。ざっと40年前の写真である。しかしいまになって見れば場所も日にちも客観的に証明するものは何も写っていない。いま近くに数軒の住宅があるがそのときは皆無。住民の皆さんもこの盛り土はご存じないはず。こういう切り詰めた写真の難しさである。そしてあえて言えば、ここも将来的にはバイパスが風景を塞ぎ三上山は見えなくなる。右の鉄塔が現場証明になるかどうか。
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曙光

朝、霧が深い。もうそんな季節なんだ。どうなるかわからないがカメラを持って飛び出した。その間1分もないはずだが様子は変わっている。霧は絶えず動いているのだろう。とにかく現場へ行ってみる。東の方に赤みが指しだした。山の姿は肉眼でははっきりしないのだが、モニターで見ると何とか山頂付近が見える。朝の散歩の人がはっきりしてくる。
帰ってプロパティを見ると撮影時刻が6時22分。滋賀県地方、けさ(10月27日)の日の出が6時13分だという。実際に太陽が姿を現すのは、日の出の時刻より10数分遅れるから、シャッターを切ったのが実際に太陽が見えだすころだったらしい。
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バイパス工事中

野洲高校の校舎は三上山から見て新幹線の向こう側にあり、グランドは三上山側にある。いまカメラが立つ場所はグランドの周りを流れる小川のふち。グランドは農業高校だったころは農園だったところで、桃の花が咲いてなんとなく懐かしさを感じさせるところだった。そこで撮影できなくなったのは画面右半分に見える大きな倉庫が建ってから。当時は日通の倉庫だったが、いまは別の業者のはず。
そして今、倉庫が嫌だとかなんだとかいっている場合ではなくなった。その手前に8妨害パスが通るという。(段々指が怪しくなってきた。8goubaipasuと打ったはずだが)。盛り土の上のトラックやパワーショベルはその作業中。あと何年か先にはこの風景は万里の長城でふさがれる。GooglMapを航空写真に切り替えるとその生々しさが見えてくる。
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イネも頑張る

きのうの木を撮っての帰り道、ふと気が変わって新幹線沿いの道を野洲高校のグランドの方へ歩てみた。別に変わったものがあるわけではない。新しくできるバイパスと新幹線に挟まれた間で、将来は工業団地になるとかで、今のところは雑草が伸び放題になっているエリアである。
ふとみると雑草に交じって稲が穂をつけている。思わず我が目を疑った。完全に放置された土地だから、農家の手が入っているわけではない。雑草の間から勝手に生えてきて実をつけたのだろう。去年か一昨年かの、最後の稲刈りのときにこぼれたコメが、芽を出したのだろうか。事情は分からないが、何ともけなげなことである。イヤイヤほんま、きのう書いた木や鳥もよく頑張ったが、このイネもちょっと意味は違うがよく頑張った。もうちょっと近くで手がとどくぐらいのところだったら、ひとしごきして神棚か仏壇かに備えても罰は当たらないだろう。
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よく頑張った

台風21号、超大型。今回の台風の進路が伊勢湾台風に似ているといわれていた。当時住んでいた京都伏見のボロ家で真夜中に1.5m四方ほどの壁が抜けた。どうして朝を待ったかいまとなっては記憶もないが、近鉄名古屋線が甚大な浸水被害を受けた。当時狭軌だったのを、復旧作業と同時に標準軌間に取り換えるという歴史に残る離れ業をやったいわくつきの台風である。今回の台風も、湖西線のコンクリート製の架線柱が根元から折れたり、マキノのメタセコイヤの何本かが倒れたという。
となればあの木は大丈夫か。午後から晴れ間が出てきたのでご機嫌うかがいに。祠が取り払われた小川沿いにたった1本立ちつくす桜の木。今年の春には花も咲かせなかったので、ひょっとしての思いもあったが、とにかく何の変化もなく立っていた。変化したのはこちらの足。稲刈りが終わった田んぼだから、若いころなら難なく定位置まで行けたはずだが、まだ水が残っている田んぼの細い畦に思わず足がすくんだ。構図の違いはそのせいである。
帰りの農道、何事もなかったように二羽のセキレイが遊んでいた。まわりはただの空き地と化した工業団地予定地。こんな中であの台風の夜を過ごしたのか。よく頑張った木も鳥も。
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