秋色・3

☆関西TV・9月5日(月) 朝9:55~11:20「よーいどん」・・・”地球はホントに丸かった”(■写真ステージ 「近江富士」 HPに収録・「三上山スペシャル」からどうぞ)をテーマに放映予定
■近江非名所全集
■野洲を歩けば


旧北流右岸道路。
■写真ステージ 「近江富士」 HP・・滋賀Web大賞2011・地域活動団体部門で優秀賞を受けました。
秋色

いまから66年前、集団疎開の山の中。朝起きてみたら、お寺の大きな木にキラキラと光るテープが方々に巻き付いていた。上空を通過したB29がレーダー(当時はレーダーとはいわず、電波探知機といっていた)の反応を攪乱するために落としていったものだろうということだったが。本当はどういう意味だったのか。
☆関西TV・9月5日(月) 朝9:55~11:20「よーいどん」・・・”地球はホントに丸かった”(■写真ステージ 「近江富士」 HPに収録・「三上山スペシャル」からどうぞ)をテーマに放映予定
?日本語
東京電力は24日、2008年4~5月に福島第1原発に高さ10mを越える津波が来る可能性があると試算していたと明らかにした。(8月25日・京都新聞)
ここでも「可能性」が使われている。・・・・津波が来る「おそれ」がある・・・だと思うが、きょうは別の問題。
この文章は、現在のわれわれが読めば意味は通る。しかし、すんなりとは理解できない。津波が来るのはいつか分からない。試算したのが2008年4~5月、それを明らかにしたのが24日と頭の中で再構築する必要がある。何故か。
上の文章、前後をカットすると「2008年4~5月に福島第1原発に高さ10mを越える津波が来る可能性がある」となり、「2008年に津波が来る」と予測していたとも読みとれる。
「東京電力は24日、福島第1原発に高さ10mを越える津波が来るおそれがあることを、すでに2008年4~5月の段階で試算していた、と発表した。」とすればみょうな誤解はなくなるはずだが。
■近江非名所全集
■野洲を歩けば


■写真ステージ 「近江富士」 HP・・滋賀Web大賞2011・地域活動団体部門で優秀賞を受けました。
秋色

連日いろんなところで強いにわか雨。このときも雨の中から逃げてきての撮影だった。
■近江非名所全集
■長澤神社


左、竹生口交差点から川田大橋へ向かう道、例のフウの並木である。画面奥が竹生口、左下に長澤神社、右後ろが川田大橋へつながる。道は北流跡堤防の最高点からなだらかに下ってきたところ。右上の石柵の所が一段と高い。旧堤防の一部だと思われる。そこに長澤神社のフジとの表示があって、よく見ると右のようなフジの木が生えている。ここも道路が神社を分断したのだろう。
■写真ステージ 「近江富士」 HP・・滋賀Web大賞2011・地域活動団体部門で優秀賞を受けました。
裸のビニールハウス

ビニールハウスの覆いがはがされて、骨組みだけになっていた。こうしてみると結構面白い。夕方五時ごろ、駐車場からサッカー帰りの車が続々とでていく。
■近江非名所全集
■長澤神社


長澤池のアヤメは平安時代から詩にも詠まれてきたという。藤原俊成も歌を残しているといわれる。右はその歌碑。読みかたはこちらをどうぞ。 いま、池そのものもご覧の通り。
■写真ステージ 「近江富士」 HP・・滋賀Web大賞2011・地域活動団体部門で優秀賞を受けました。
夏草のおく

けったいな日本語
過去6千年で6回の巨大津波に襲われた可能性を示す地層をXXが発見した。
これは京都新聞の記事。意味は分かるが、何か引っかかる。「可能性」という言葉に。
この「可能性」もやたら使われる。上の例の場合は、6000年で6回の津波に襲われた地層を発見した。しかしまだ断定は出来ない。多分そうであろうと推定できる、という意味で使われたのだろう。意味は分かるが、「襲われた可能性」というように過去の出来事とつながると「?」と引っかかってしまう。
「可能性」という言葉については、私は未来に向いた言語感覚を持つ。「若者は無限の可能性を秘めている」などのように。津波に襲われたという過去の事実について「可能性」は感覚的にやっぱりおかしい。これから「することが出来る」わけで、これまでに「したことができる」はやっぱりおかしい。それともこの研究がまだ緒についたばかりで、これから研究が進む「可能性」があるということだろうか。
上の例の場合、「津波に襲われた痕跡を示す地層」、「津波に襲われたと推定できる地層」 でどうだろう。
■近江非名所全集
■長澤神社


長澤神社。野洲市比江に建つ。「長澤神社」の碑には、元帥正二位伯爵東郷平八郎謹書とある。
近くに碑文の由来との碑がある。屋上屋を重ねる話はよくあるが、碑に碑を重ねるのは珍しい。とくとご覧あれ。
■写真ステージ 「近江富士」 HP・・滋賀Web大賞2011・地域活動団体部門で優秀賞を受けました。
竹生

けったいな日本語
「野山で獣を追い、鳥を捕まえる猟師もいる」。
これも五木寛之の『親鸞』の中の言葉である。「捕まえる」はたぶん”とらまえる”と読むのだろう。「何を申すか」ほどではないが、これもときどき耳にする。けったいな日本語だ。「捕らえる(とらえる)」と「捕まえる(つかまえる)」とがごっちゃになった言葉かと思う。
ちなみに、「とらまえる」と入力すると、「寅舞える」とでる。・・・最近のトラはあんまり舞わんけどもな。いや、こちらの独り言で・・・。「とらえる」と「つかまえる」とはすんなり、「捕らえる」、「捕まえる」とでる。これはワープロに軍配を挙げる。
■近江非名所全集
■番外編


左・松尾芭蕉が旅姿で空を仰いでいるところだという。なんで芭蕉が羅漢さん?とは思うが、まあエエか。
右は、しもた・・・!。やってもた・・・というところか。現場説明板。
■写真ステージ 「近江富士」 HP・・滋賀Web大賞2011・地域活動団体部門で優秀賞を受けました。
竹生口

けったいな日本語
「われわれのことを、業の深い商売、と申されるのか」
五木寛之の『親鸞』の中の言葉である。この例だけにとどまらず、日本中で、「申す」という言葉が、実にいい加減に使われている。ドラマの中でも「なんと申すか」、「もう一度申して見よ」などと。
「申す」というのは、たとえば、「私はXXと申します」、「暑中お見舞い申し上げます」などというように、謙譲語の一つで、相手に対して敬意を表すもののはず。相手があっての自分だから、「申し」上げるのは自分でないとおかしい。 上の例の場合、「あなたたちも業の深い商売なのだよ」といわれた言葉に対して、「・・と申されるか」いっているわけで、どうもしっくり来ない。
童謡にもあるでしょう。「・・なんとおっしゃるウサギさん、・・・」。「・・なんと申すかウサギさん・・・」とはいわない。
「なんと申すか」、「もう一度申して見よ」はドラマの中では、たいがい親分が子分に対して使っている。けったいな日本語である。本来は子分が親分に「申し上げます」のはず。
■近江非名所全集
■番外編


三重県菰野町竹成。五百羅漢。左・出山の釈迦。現場説明板。
■写真ステージ 「近江富士」 HP・・滋賀Web大賞2011・地域活動団体部門で優秀賞を受けました。
野洲市長島2

「全部無料(ただ)でつくるホームページ」という本が有料だった。できあがったホームページは有料?。無料?。
■近江非名所全集
■番外編


三重県菰野町竹成。五百羅漢。現場説明板。
■写真ステージ 「近江富士」 HP・・滋賀Web大賞2011・地域活動団体部門で優秀賞を受けました。