落差工

1月も終わりである。今年の冬はどういうわけか天気がはっきりせず、雲の多い日が続いた。例年だと青空の下に比良連峰という風景が何回かは見えるのだが、今年は皆無。2月、3月に期待するしかない。
野洲市総合体育館から道を挟んで広がる田んぼを斜めに横切る中の池川。生和神社の近くで上流の祇王井川から分離し、いわばバイパスのような働きをして下流の童子川にいたる。その途中にある落差工である。われわれ素人から見れば、これぐらいの高さの差なら、適当な勾配をつけて吸収すればいいのにと思うのだが、なかなかそうはいかないものらしい。ここのところもすぐ下流に別の川が合流してくる。この落差がないとその合流点で合流してくる川より水位が高くなり逆流していくのだろう。そこらのところを読み解いていくと川の流れ一つにしても結構面白いものである。
山の重なりとしては、高原状の妙光寺山の向こうに立つ三上山が上半身だけを見せている構図である。風景としては結構面白いのだが、如何せん三上山の真下に見える白い建物、これが何とも目障りで・・・。
写真ステージ 「近江富士」
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地球の森冬景色

昨日の写真で画面左端に見えていたコンクリート製の橋の上からである。確かめたわけではないが多分地球の森の中の最高点であろう。ここ以外の別の場所を含めて考えれば、ひょっとしてもっと下流の今浜町あたりで旧堤防がそのまま残っているところが考えられるが、少なくとも水保町周辺では間違いなくここが最高点である。
なぜ高さんこだわるか、写真を見ていただいてお分かりの通り、大して大きくもない木が邪魔をして視界を遮っているのである。一番高い場所から見てこの通りである。木はまだまだ伸びる。ここから三上山が見えなくなれば、他の場所ではまず駄目である。公園に木が必要なことはわかる。しかし特定の方向には視界を広げることも公園設計上必要ではないか。それが考えられていないように思えて仕方がない。
写真ステージ 「近江富士」
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地球の森冬景色

地球の森、昨日とほとんど同じ場所。細かく言えば女の子が走っているところから、もうちょっと前へ行ったあたり。枯れたヨシが生えているのが旧南流の水路跡地。画面右下に水面が見える。この水は流れてはいないしなくなりもしない。「野洲川旧南北両流跡地探訪」のところで何度も書いたが、川というものは、新しい川を別に作れば、古い川は不要になるものだと思っていたが、実際にはそう簡単なものではないらしい。理屈の上では川は流れていなはずだが、やっぱり水は残るのだという。河川敷跡がこのように公園化されても流路跡には残る。農地に戻されたところも、畑にはなるが水田にはなっていない。多くはビニールハウスの敷地になっている。
画面左端の高いところに白いコンクリート製の橋が見える。その右手前に少し低いところに板塀のようなものが見える。水路跡に架かる橋である。きのうの自転車の女の子の前方にも写っている。と書くと、ああそうか、コンクリート製の橋もこの水路の続きに架かる橋で、高い場所だからコンクリート製にしたのだなと思われるはず。ところがそうじゃない。この橋は水路跡にかかってはいない。水路跡と並行しているのである。私自身、最初意味が分からなかったが、どうやらこの下を公園を横切って一般道が通るらしい。そうでなければ理屈が通らない。
写真ステージ 「近江富士」
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地球の森冬景色

久しぶりに地球の森に行ってみた。浜街道「JAおうみんち」のほうから右岸側の道路を通って新しくできた駐車場で行く。例の広い空間に大きな建物が建った場所。他の駐車場にはない賑わいを見せていた。何か催し物でもあったのか、それともいつもこのようににぎわっているのか。
さすが広大な土地だから、例の建物を背後にすると、人はどこにいるのかわからない。そんな中で、中央の道路を女の子が2人自転車で通り過ぎていった。その時は瞬間中学生だと思ったが、こうして写真で見ると小学生高学年のようにも見える。周囲はほとんど茶褐色の冬景色。右手の丘の上に立つケヤキの木(だと思うのだが)のシルエットが印象的だった。
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尼ケ池水辺公園

守山市川田町と笠原町とに挟まれて、中町という細長い町がある。その中町と川田町の境をなす通り、周りにはこれといって地名のポイントになるようなものがない。あえていえば野洲川の近くの近江妙蓮公園ぐらいか。今はそれよりも少し西、中町の中ほどに若宮神社というお宮さんがある。ここはその川田町側、集落のはずれにある尼ケ池水辺公園という小さな公園である。回りくどい説明になったが、私としてはこれで精一杯の説明である。
冬の水辺公園はさすがに誰もいない。いつかきたときは子供たちが遊んでいたのに、ひょっとしたら夏だったのかもしれない。周りを少し歩いてみた。水辺の向こうのグランドへ出て右の方へ行くと視界が開ける。しかし、野洲川近くに集まる工場が目立ってくる。手前の畑は別にして、この建物群にはちょっと二の足を踏む。
もう一度引き返して、水辺公園そのものを大きく撮ってみる。グランドの向こうの農地にビニールハウスがあってそれが工場の建物を隠していることがはっきりわかる。それでもいいのだが、できればハウスもあまりあからさまにはしたくない。それと池から流れ出てくる小川にも魅力があった。それが標題写真を選んだ理由である。
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祇王井川最上部

野洲川右岸、石部頭首工と名神野洲川大橋との間。小屋の向こうの森は名神の路側帯の樹木である。カメラの位置から振り返ると頭首工の堰堤が橋のように見える。その向こうに逆光で光っているのが湖面。手前に光っているのが下流の野洲川の水面。当然両者の間にはしかるべき高さの差がある。増水時にはそれぞれのゲートから放水されているが、渇水期の今は一番左の1本だけだった(写真には写っていない。)
標題画面左下に見える川は、野洲市街地を通り抜け家棟川に合流する農業用水「祇王井川」の上流。頭首工からから取水されて堤防の下をくぐって外側へ出てきたところである。こうして書くと簡単なようだけど、野洲川と家棟川は別の川である。ということはその間に水を分ける高地(大げさに言えば分水嶺)があるはずで、それを越えていかなければならない。清盛の時代にそれをなした。驚くべきことである。
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入日の丘

本論に入る前にきのうの続きをひとくさり。日の出の塔の前に「慰霊の丘」という小さな塚がある。実はこれがさくら墓園レイアウトの中心的位置を占めているのだが、日の出の塔の説明を読んで、この丘が日の入りの丘だと思い込んでいた。ところがそうではなかったのである。つい最近入り口近くの場所で、なにこれというモニュメントが置かれているのに気がついた。それが今日の標題写真「日の入りの丘」ということになるわけだが、丘でも何でもないただの平地に、「どこかその辺に適当に置いとけや」という感じで配置されていたのである。今度は太陽が2つあるのかと驚いたが、これはそうではなくて「心」という字をデザインしたという。それなら意味はわかる。問題は配置の仕方である。
「日の入りの丘」というのだから、ちょっとは目立つぐらいの小山の上に配置できなかったのか。そしてお互いの丘に立って彼岸の日の出・日の入りに思いをはせる、せっかくのアイディアをなぜ生かせなかったのか。今のままだとお互いのモニュメントの見通しすらままならないのである。たとえば入日の丘から日の出の塔は見通せない。今のままでは両方のモニュメントが死んでいる。せめて日の出の塔を生かすとすれば、標題写真の画面右端にちらと見えている石標の近くまで移動して塔を見る。塔の部分をアップする。この通路こそが説明板による「東西の軸」である。
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日の出の塔

さくら墓園の「日の出の塔」である。そばに解説文があって、・・・さくら墓園の東西の軸上、東側に「日の出の塔」を、西側に「日の入りの丘」を設置し、春分・秋分の日の出は塔の間から太陽が昇り、日の入りは丘の上に沈むように設けました。・・・とある。
言おうとしている意味はわかるけれども、その気になって読んでみると、意味が通らない。いちばん基本的なことが抜けているのである。彼岸の日の太陽と塔とをどこから見るのかということである。写真でいうカメラ位置。たとえば琵琶湖大橋の堅田側から見たとき、11月1日だったか2日だったかに、2本の橋の間から太陽が昇るということで、撮影場所の取り合いになるとか。要するに太陽を撮るには場所と日時である。場所が決まれば日時を探す。日時が決まれば場所を探す。
今の場合でいえば、日時は決まっているから、どこから見るかがポイントである。日の出の塔と日の入りの丘、その両者を結ぶ直線。解説文にいう「東西の軸上」、その上に立てばいいのである。もう一度解説文に戻れば、・・・さくら墓園の東西の軸上、東側に「日の出の塔」を、西側に「日の入りの丘」を設置し、その軸上から見るとき、春分・秋分の日の出は塔の間から昇り、日の入りは丘の上に沈みます。・・・となる。
墓地に彼岸の日の出・日の入りを持ち込んだ。アイディアやよし。しかしアイディア倒れ、悲しいかな東西の軸になる通路がないのである。
写真ステージ 「近江富士」
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