地球の森南流跡

タイトルは同じになっているが、昨日の写真は工事区間の最上流。きょうの写真は最下流ということになる。実際の南流跡はこの後大川橋跡を経て、さらに下流へ続いていくが、地球の森として指定されている範囲ではここが最下端ということである。
ダンプが走っている道路は南流跡を直角に横切っている。だから堤防そのものも横切られたわけで、木が切られて堤防が丸裸になったというところである。正直、意外と小ぶりなのに驚く。これがかつての南流堤防そのものなのか、道路工事などによって手が加えられた後の姿なのか。素人の私にはわからない。でも少なくとも川田大橋付近の旧堤防とはスケールが違う。専門家の説明を待ちたいところである。
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地球の森旧南流跡

昨日と同じ場所。工事区間の最上流の場所である。左側にポールの先端にチョウが飛んでいるようなものが立っているがそこが駐車場だった。以前トイレを借りるのに車を止めたことがあるが、まず他に車が止まっているのを見たことがない立派すぎる駐車場だった。今そこがダンプカーの出入りに使われている。
右手、池のように見えるのが旧南流の残留水路。川というものは、流れを変えたから、今までのものはお役御免とはいかないものらしい。このように流れの跡に水が残る。去年、南流跡をレポートしていたとき、ほぼ同じ位置から撮った写真が残っていた。この後どう変わっていくのか、しばらく目が離せない。
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ぽっかり穴が

なんや、また同じところかと思われるかもしれない。事実、道路の様子はよく似ている。撮ってきた私自身が驚いている。
地形はよく似ているがまったく別の場所である。地球の森の最下流に当たるところで、公園の基本的なポリシーとしては、昔の野洲川南流をできるだけ元の状態のままで保存しようとするゾーンに当たる。しかしそうはいっても今の社会の中で、昔の状態を100%そのままとはいかないだろうとは思っていた。南流跡をレポートした時にもそんな意味のことを書いたような記憶がある。
しばらく通らない間に、そのゾーンの工事が始まっていたのである。いまクルマの右に三上山が見える。これはつい半年ほど前までは、密集する樹木と竹で全く見通しがきかない状態だった。それがぽっかり穴が開いたような状態になっている。
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深い悲しみ

再び旧南流堤防跡地である。私はいま視界が広がった、広がったと喜んでいる。しかしその裏には必ず悲しみがある。居住権を奪われて深い悲しみの中にいる彼らを忘れてはならない
次の写真は藪が切られる前の状態である。よく見ると木の先に鳥の巣があって、その左下でアオサギが2羽、新しい巣を作っている最中である。下の2枚の写真もどうぞ。
このようにして、この竹藪自体が鳥たちの営巣地だった。注意深いアオサギが、真下まで近づいても知らん顔をしている。ここはわしらの場所だ、と言わんばかりの態度だった。上の写真の木が、巣を作っていた木と同じかどうか確たることは言えない。しかしここら一帯が鳥の営巣地だったことは紛れもない事実である。新しくできる公園は彼らの深い悲しみの上に立つ。
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旧南流堤防

昨日と同じ、川田大橋畔の公園予定地である。今度は現在の堤防上道路から旧南流の堤防を見たところ。ダンプが走っているのが現在の放水路の堤防。木の向こう、シルエットで盛り上がっていくのが旧南流堤防。現在の堤防よりもさらにダンプの高さを上乗せしたぐらいの高さだったことがわかる。
何度も書くが、工事が始まるまではこの場所に立っても、道の右側は竹が密集しているだけで、旧南流の堤防は見えなかった。ここはそういう場所だった。どのような形で公園になるかはわからないが、この旧堤防だけは残してほしい。野洲川が天井川だったことの数少ない生き証人なのだから。下の写真右はその旧堤防を上流側(上の写真のダンプの後方)側から見たところである。小山のように見えるのが旧堤防。
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見通し

邪魔者がなければ視界が広がるという当たり前の話である。何が邪魔で何が邪魔でないか、邪魔という言葉は相対的なもので、うっかり使うととんでもないことになる。この場合は遮蔽物というべきか。
写っている道は旧野洲川南流の堤防。左の空間は新野洲川放水路との間の空き地。つい1年ほど前までは竹が密集していて、見通しどころか昼なお暗く、10m先も見通せないような場所であった。当然この場所からはあふれ出さんばかりの竹が見えるだけで三上山は見えなかった。その竹が刈り取られた今はこうして遠くまで見通せるようになった。
工事現場の看板によると、「公園を作っています」とある。妙なものが建つのではないかと心配していたが、とりあえずこれで一安心。
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山は高きから見よ

花緑公園森林センターの横から里の家側へ通ずる歩道橋の上からの撮影。道路から高い分山が起きて見える。背の高いメタセコイヤや杉の木が立つ間から頂上部をのぞかせる。
「山は高きから見よ」、山を高く撮ろうと思えば、自分自身が高い位置に立てという。単純に考えると逆のよう思える。しかしこれは間違いではない。山岳写真の鉄則である。
昨日の桜池畔からこの歩道橋上までの標高差は目測だけれども、20数mはあるだろう。もちろん歩道橋のほうが高い。撮影地点から頂上までの標高差は、桜池畔からのほうが大きい。ところがそちらのほうが低く写る、なんとも不思議な話である。
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霧晴れる

10時過ぎ花緑公園の遊具広場の斜面を下って、希望が丘道路の桜池近くへ下ったところである。霧に霞んでいたところから、時間にして20分そこそこなのに、空一面に青空が広がり始めている。
「霧が晴れる」、いままで閉ざされていた視界が広がる。初めて体験したわけではないが、そのたびに劇駅なことだと思う。理屈の上では空気中の水蒸気が飽和状態から非飽和に移行するだけである。水蒸気が急になくなるわけではないから、気温がわずかに上がるだけ。体感的には、霧が晴れて太陽が照り出すとずいぶん暖かくなったと感じる。しかしこれも太陽からの輻射熱を感じるだけで、気温そのものは急に変化するわけではないだろう。そんな中での霧のこの変化である。自然も人間の社会も微妙なバランスの上に成り立っている。
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