住宅地の中で

野洲市市三宅からJR線をアンダークロス、「背比べ地蔵」の前を経て国道8号妙光寺に達するいわゆる地蔵さん道路。その道が新幹線をくぐった左側に新しい住宅地がある。開発されて何年になろうか、もうほとんど空地もない状態である。
いつも近くを通るたびに窓からちらっと見えるこの風景が気になっていた。住宅地の中に大きな杉の木がそびえているのである。住宅地の中の大木、雷でも落ちたら大変と、切られてしまうのが落ちだろうに、ここはそういう気配はない。梅雨の晴れ間に周辺を歩いてみた。
入り口からこそかろうじて標題の写真のように杉の木と三上山が並ぶが、すぐに山が木に隠れるようになる。ほとんど目の前まで近づいて、やっと山が木の下へ姿を現す。そこまで行って初めて分かったのだが、祠があって小さな神社になっている。そうか、しめ縄こそ巻かれていないが、この木はご神木だったのか。そうすりゃ雷様が2つや3つ落ちても切るわけにもいかんわな。しかし住宅地が拓かれる前はどうなっていたのだろう。少なくとも私はそこに神社があることすら知らなかった。
写真ステージ 「近江富士」
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銀色の屋根

県道13号穴村交差点を南に進んだところ。集落内には昔の賑わいを想起させる重厚な構えの家屋が多い。ここは集落から離れた田んぼの中の道路から。少し離れた集落の民家の屋根が6月の高い太陽に照らされて銀色に光っていた。
三上山の右裾からなだらかな上り勾配の十二坊は、その頂上が画面右外に出て、その斜面の途中前面に菩提寺山が立つ構図である。
写真ステージ 「近江富士」
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一夜伏塚

昨日と同じ場所、というよりは昨日と同じ写真。山の部分だけをアップした。遠くの薄い山は別にして、三上山の右裾から緩やかな上り斜面が続き、右端の電柱のところで2つのコブを示した後、右下へ流れ下る。普段野洲あたりから見ているのとはちょっと変わった見え方をする。
実はこれ1つの山に見えるが、なだらかな上り勾配は十二坊、右端の2つコブは菩提寺山である。その部分をアップすると2つの山の前後関係が見えてくる。守山市幸津川町バラ菖蒲園あたりからもこれによく似た構図が見られるが、そちら(守山)からの場合は十二坊がはっきりと独立して見える。山の重なりの妙である。
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一夜伏塚

草津市の印岐志呂(いきしろ)神社、田んぼの中の赤い鳥居が印象的。浜街道のゴルフ練習場の近くである。一見したところ三上山と並びそうだが、途中に大きな建物があってアウト。無理なものは仕方がない。
で、近くの農道を走る。北西に300mほど走ったところに小さな塚があって何かが祀られている。(塚を前にして走ってきたほうを振り返ったところ。黒く印岐志呂神社の森、右端に赤い鳥居が見える)。草津市教育委員会が立てた案内板があって「一夜伏塚」の名が見える。南北朝時代の旧跡とのことだが、この長い文章を田んぼの中で読めというのは無理。
標題の写真は、この一夜伏塚の前から見た三上山。今までの長話はこの場所を説明するためのものでした。ハイ。大気不安定。西も東も大雨だとか。
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棚田を見下ろす

県道12号片山交差点のすぐ横である。県道は上りになっており、それに従うように田んぼはちょっとした棚田を形作っている。それを上から見たところである。左のほうに、下に続く田んぼが見える。それはいいのだけれど、その下に観音寺へ抜ける道との分岐があり、看板が集まっている。
写真をやっている人なら、もうちょっと右から撮ればいいのではないかと考える。わたしも実際に動いてみた。結果三上山が右へ移動して、前の山に隠れる率が大きくなる。まあしかし、それは微々たるものだから辛抱するとして、それよりも大きな問題として、一番手前の田んぼだけが見えて、奥の田んぼが見えなくなる。標題の写真の右端にその兆候が見えている。手前の田んぼだけが馬鹿に大きく、すぐに奥の麦畑に飛ぶ。それも妙なものだった。
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たわ言

県道12号栗東信楽線の片山交差点。国道1号高野から金勝山地へ向かうとき、最後の信号である。その片山信号の手前100mほどのところ、山に向かって右側に小さな田んぼがある。その片隅に形のきれいな2本の木が立っている。田んぼの外を行く県道からも見えるが、道とは反対側へ傾いているため、印象はそれほど強くなく、いままで何度も現場を通りながらうっかり見落としていた。
何の木か、残念ながら私にはわからない。木の形、特に上半分を見ると松の木のようにも見えるが、そうでないことぐらいは私にもわかる。初めからそれを見分けようなんて気持ちはさらさらないのだが、ひょっとしてネムの木?、そんな気もしてくる。もしそうだとするともうすぐ花が咲くはずだ。ネムは、松、杉以外に私がかろうじて判別できる数少ない木の一つだが、「こんな木にネムの花が咲いてたまるかい、もし咲いたら金勝山のてっぺんで逆立ちしたるわ」と抱腹大笑している博学の方が大勢いらっしゃることは百も承知のたわごとである。
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微妙なカーブ

東海道だけに限らず旧街道の特徴は微妙なカーブだと思う。実際に調べたわけではないが、おそらく直線が100mも続く部分はないのではないか。1Kmも、2Kmも見通しがきく直線道路を歩けと言われたら人間は意欲を失ってしまう。見通しがきくかきかないかのわずかな曲がり、これが必要だったのだろう。
昨日の写真と比べて、電車が写っているかいないかの違いがあるだけで、ほとんど同じ写真に見える。共通点は畦のわずかな曲がり。このように、旧東海道沿いのこの農地の特色は微妙なカーブにある。旧街道の微妙なカーブが田んぼの区画にいうにいわれぬ影響を与えているのではないか。得も言われぬカーブを持ちながら、実際の作業に当たっては直線とほとんど変わらない使い勝手、素人目にはそのように感じられるのである。
写真ステージ 「近江富士」
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旧東海道から

旧東海道を少し歩き、民家の裏へ回り込んで水田を撮っていたとき、どこかの踏切がチンチンとなりだした。電車が来るらしい。しかし、どちらから来るのかはわからない。どちらから来てもいいのだが、「青大将」ならやめようと思った。関西地区のJRに濃いグリーン一色の編成が増えた。私はそれを青大将と呼んでいる。
東海道線全線電化完成[昭和31(1956)年]から、電車特急「こだま」デビュー[昭和33(1958)年]までの間、EF58が牽く客車特急の時代があった。その時の色がライトグリーン。どちらかというと白っぽいグリーンだったが、それがやっぱり青大将と呼ばれていた。期間が短かったこともあり、あまり人気が出ずに終わった。現代の青大将はそれよりも濃い。このような緑の風景の中では目立たないことおびただしい。
さいわい、やってきたのは青大将ではなかった。奥にある数本の木は電車で隠して…と計算したが、電車はその向こう側を通り過ぎた。思うようにはいかないものだ。
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