鉄塔の風景

再び六条交差点。そのそばにある”コミセンひょうず”前の細い道から。左に見えるのが、きのうの二之宮神社の森。その右ごちゃごちゃしているところ、青信号がついているのが”六条中央”交差点。琵琶湖大橋から来た477号が近江八幡へと折れていくところである。もう一つ奥に小さな交差点があるのだが、電柱と重なって青(のはずだが)が隠れている。念のためともう1枚撮っておいたのを見ると、奥の信号はオレンジだが、肝心の信号は写っていない。これがLED信号の難儀なところ。特にこのように信号が重なっているところは面倒なことになりそうだ。いまの場合は信号を目当てにしたわけではないので、とやかくいうことはないのだけど。
もう一点、右に見える高圧線鉄塔。おそらく三上山を撮り始めたころには画面に入れなかっただろう。しかし最近は感覚が変わってきた。いまの場合は梅雨空のはっきりしない天気だが、スカッとした青空に白雲でも浮かんでおれば、これも風景の一つだと感じるのである。
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鎮守の森

いまだ経験したことのない大雨だという。100年に一度というが、昨今はそれが毎年起こる。きょうの京都新聞に野洲川・杣川上流部に1000年の一度の大雨が降ったらという記事が出ていた。「0」が1つ多いのじゃないかと思わず見直したが、間違いではなかった。大雨は山間部に降る。しかしその雨は平野部へ流れ出る。日本中すべての地域が明日の吾ごとである。
国道477号六条交差点。そばにJAのカントリーエレベータがある。細い道路と交差する変則的な交差点で、その細い道を兵主大社の方へ100mほど進んだところから。右に見える森が二之宮神社の森。一昨日、兵主大社の参道に立つ石標として挙げておいたが、それがたまたまこの神社のものだった。
水田の向こうに鎮守の森。野洲川デルタの典型的な風景である。この神社は詳しくは知らないが、南北両流時代の水防にまつわる古事が多い。新放水路は1000年に一度の大雨に耐えられるのかどうか。
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アジサイ

国道747号、兵主大社南交差点から近江八幡へ向かう道がすぐにわずかに左へカーブを始める。それによってできた楔形の空き地がちょっとした庭園風景を作っている。そこに咲いていたアジサイの花。誰が作っているわけでもなさそうで、ただ自然に咲いているのだろう。おりからの強い風にあおられて葉がまくれ上がり白く光っていた。
花の向こうには、中主幼稚園やさざなみホールの建物が見える。これ幸いと花で隠したのだが、一般的な絵ならそれでめでたしめでたしとなるのだが、私の場合はそれで満足ばかりもしておれない。風景のアリバイを消し去ったことになるからである。あと10年もすればこの風景はどこで撮ったのか、誰もが分からなくなる。そのとき、三上山の右肩の遠い山が、石部の阿星山だと見抜いてくれる人がおればいいのだが。
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兵主大社参道

兵主大社の参道である。入口の鳥居から楼門前まで見事な松林が続いている。しかし、普通は兵主大社というと、その松林の外側に沿っている道路を楼門前まで走りそこから入る。そんなことで考えてみるとここを歩くのは三上山を撮りだして間なしのとき以来40年ぶりということになる。鳥居から約半分ほどの間には、付近のいろいろな神社の名を刻んだ石柱が2本ずつ組み合わされて立っている。たとえばこれは二之宮神社の例だけど、祭りに暗い私には何の意味なのかよくはわからない。
先ほども書いたが、三上山を撮りだして間なしのころ、一度はここへ来た。そしてそのとき、ここはダメだと判断した。いまこうして40年ぶりに歩いてみて、ここをなぜだめだと判断したかと不思議である。多分外の道路に沿う電線を嫌ってのことだったのではなかったか。右の松の木に並ぶ電柱も隠そうと思えば隠せる。しかし、当時はそんな無理をしなくてもほかにいくらでも撮るところはあるではないか、そんな思いがここから遠ざけたのではなかったか。田んぼの向こう、水平に走る白線は、近江八幡に向かう国道477号のガードレールである。
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木が消えた

伐採されて消えてしまった竹ヶ丘住宅地の木。私がカメラに収めたいちばん古いのはいつかと探してみた。2011年10月。造成工事中のものである。撮影場所は旧竹生集落内の道を歩いて一番端まで行ったはず。いまもそ道は残っているが、この場所に立っても新しい住宅で三上山は見えない。次が2012年1月。野洲川北流跡に続くビニールハウス沿いの道を歩いて撮影した。この道ももちろん残っているが、フェンスで囲まれた部分には住宅が建っている。
そして、2013年12月。造成工事が進んでいることが分かる。2014年3月。よくぞ残してくれたとの思いが強かった。しかし、ここまで裸にしてもいいのだろうかの不安を感じたのも事実だった。幸いその夏は葉を茂らした。2014年10月(標題写真)。その後、住宅地風景としてこの木を撮った記憶はあるが、いつから枯れだしたのか、きっちりした記録はない。
と、このようにこの木に関してはその時その時で撮影位置が変わっている。そしてそれらの場所が現在撮影不能な位置関係になっている。住宅地がどう変化しようとも、ここから撮れば不変の風景が撮れる。そういう場所を定めて撮影をしておくべきだった。変化を追い続けるだけで結果的に中途半端に終わったことになる。残念。
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木が消えた

竹生口交差点付近を走っていて、入り口に立っていた木がなくなっているのに気がついた。5,6本立っていただろうか、ほとんど枯れてしまっていたからこれはいずれ切り取られるだろうと覚悟はしていた木である。旧野洲川北流堤防に生えていた木で、切り取られていく過程は何回か撮っていたから、いまの姿を撮れば話は簡単だと気楽に考えた。しかしこれには三上山は写ってはいない。これを標題写真に使うわけにはいかない。そんなことで、あわてて撮ってきたのが標題写真である。しかし、これがもとの木が生えていた場所ですといっても、ホンマかいなと一笑に付されるのがオチだろう。さてどうするか。
で、その前にとりあえず外から見た昔の写真を何枚か引っ張りだしてきた。2011年8月撮影。野洲川北流跡の姿である。野洲北小学校方面から旧竹生口交差点へ向かうところ。当時は、この道を右に折れて少し行ったところが交差点だった。黒々とした堤防が続いている。 そのころ始めていた「南北両流探訪跡」で撮影していたものだった。ちょうどそのころ現在の竹ヶ丘住宅地の開発が始まり、堤防林の伐採が始まっていた。以下、2011年9月、2011年10月とどんどん木は切られていった。全部切ってしまわないようにと、祈るような思いで見ていたのを思いだす。
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玉ねぎ畑

いつの間にやら7月、今年もいよいよ後半戦である。
新庄の玉ねぎ畑跡、きれいに整備されて例のカーブが鮮や。ここは野洲川北流道路新庄側、遠くに野洲川最遠の手てものが見える。
一方、きょうの標題写真は同じく乙窪側、手前は収穫も終わりきれいに整備が終わっている。奥の畑ではただ今収穫中。菅笠をかぶって黄色のユニフォームを着た人が一人、黙々と作業を進めている。いくつかある畑を一斉に処理するのではなくて、3,4人ほどで順番に回っていくシステムらしい。農作業のことだからあまりでたらめも書けない。この写真は6月23日の撮影。ひょっとしたら、今ごろはこの畑も作業を終わっているかもしれない。
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