3.3度の差

昨日の撮影場所「湖西路」前から、白鬚神社の岬を回って萩の浜水泳場へ出る。松の木が立派すぎて絵を作るのは難しい。その南の端にびわ湖青少年の家という施設があって、そこまで行くと松の木がなくなる。撮影時刻は、湖西路前が12時02分、こちらが12時13分。約10分の差である。にもかかわらずこちらの湖面は青い。そんな中できらめきが右の方ほど多い。太陽が右の方にあることを示している。しかし、10分間で太陽がそんなに動くはずがない。動いたのはカメラの方である。三上山からの方位、湖西路前が353.0度、萩の浜が356.3度。風景を変えたのはこの差3.3度である。
3.3度という角度がどんなものか。簡単に言って、一周360度の100分の1。その微妙な角度がこの画面に見えるのである。いや、正確に言うと昨日の写真ときょうの写真との差として見えるのである。岬が見える、シュロが見えない、そんな話ではない。三上山とその後ろに見える金勝山系との微妙なずれ。今日の写真の方が、後の山がごくわずかに左へずれている。別のいい方をすれば、三上山の頭の出し方。きょうの方が頭の出方が大きい。これが3.3度の差である。
写真ステージ 「近江富士」
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飛込み写真

国道161号を北上するとき、白髭神社の手前山側に、よく似たレストランが2軒前後して建っている。これはその手前「湖西路」前の駐車場から。手前にシュロのシルエットが立ち、その横に遠く三上山が見えるという単純な構図。それに白い琵琶湖。これが青いとまだ助かるのだが。
これには単純な錯覚が絡んでいる。はじめに、「国道161号を北上する」と書いた。別に間違いではない。三上山は対岸に見えるから、「北」に対して右手、すなわち「東」に見える。これが間違いのもと。この論理が成り立つのは南湖、それも唐崎から雄琴あたりに限定される。道路は湖岸に沿って走る。いまいうレストラン湖西路あたりでは道は東進しており、三上山は南に見えている。この時間帯で、太陽が前から照るはずはないのだが・・・?。飛び込み写真(水に飛び込んだわけではない。何の計画もなしにわっと飛び込んで撮ったという意味)の失敗作である。
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バイパス予定地

昨日見てもらった中畑・古里遺跡は野洲市行畑から国道8号交差点に至る向きに見て、道路の左側にある。点としての遺跡はそこにあるわけだが、バイパスは野洲市から川を越えた栗東市に至る帯である。現に新しい道を越えた反対側(白いクルマが走っているのが例の新しい道。昨日の発掘現場はその道の向こう)でも、発掘調査が行われている。それがさらにどのようなルートをたどるのか気になりだした。
そのルートの先には例の地蔵さんと柿の木がある。私としてはここも一つの定点である(標題写真)。右前方へちょっとした道ができている。そういえばこの道は初めてではない。調べてみたら今年の8月31日撮影の写真にそれが写っていた。そのときには事情が分からなかった。妙な道ができたな。ただ単にここもダメになったなと思っただけだった。しかし、今はわかる。その妙な道の先に並ぶ杭こそがバイパスルートの境界線(三上山側)だった。念のためその境界線から地蔵さんの方を見たところ。柿の木と赤いコーンとの間に杭が2本見える。これが反対側(新幹線側)である。柿の木と地蔵さんは計画されているバイパスのど真ん中に位置するわけ。
近い将来この風景は間違いなく消える。初めての出会から40年、長い付き合いだった。
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弥生遺跡

13日だったか京都新聞に、”県文化財保護協会は12日、野洲市妙光寺の中畑・古里遺跡で弥生時代中期の方形周溝墓2基が見つかったと発表した。”との書き出しで、国道8号野洲栗東バイパス工事による遺跡発掘を報じていた。バイパスについては随分以前から話には聞いていたが、いつのことやらと思っていた。しかし、少なくとも発掘調査までは進んでいるらしい。記事には14日・土曜日に現地説明会とあったが、あいにくの雨だった。説明会が行われたかどうか。
一昨日17日(火)、午後から雨になるとかで、午前中にとにかく現場の確認だけでもと出かけてきた。行畑の地蔵さんのところから、国道8号へ抜ける新しい道路が国道へ出る妙光寺交差点の手前150mぐらいのところだった。発掘現場は遺跡が裸で見えるかどうかが勝負、ブルーシートがかけられてしまうと写真にならない。幸いこのときはすべて裸、その上にさらに新しい発掘作業が行われていた。
「方形周溝墓」というのだから”周りに四角の溝がある”と解釈できる。とすれば、いま作業をしているところがその一部ということか。いやそうじゃないだろう、いま作業しているところはあまりにも現代的すぎる。右の太い2本の溝が弥生人的じゃないかと思ったり。素人にはわからない。質問すればいいのだが、そんな雰囲気ではなく、遠巻きにスナップするのが精一杯だった。もう1枚。
いずれにしてもここをバイパスが通ることは既定の事実。また一つ風景が変わる。写真に見える白い建物は妙光寺交差点の角にあるコンビニである。
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霧の朝

朝6時半ごろ、シャチョウが「ワーすごい。ちょっと来て」と一人で騒いでいる。三上山に霧がかかって左上にかすかに赤みも見える。うん確かに。ちょっと行ってくるわ、と飛び出した。
現場へ着いた時には言うまでもない、家から見たのとは大きく変わっていたが、それでも地上は霧、三上山の上空にはうろこ雲が広がっていた(標題写真06:45)。よく見ると三上山の山頂を境として右半分が陰になっている。何かの陰になっているらしい。とすれば相手は山しかないのだが。この前の教室だったか、佐々木さんが希望が丘の例の1本の木を撮ってきたとき、同じように右半分の雲が陰っていた。何か関連があるのかとも思うが、よくはわからない。
影が反時計回りに動いている(写真A06:51)。太陽は右上向きに動くから理屈は合っている。影が不明瞭になり右肩の斜面に馬のタテガミを思わすような光炎が出てきた(写真B06:53)。反対側(南桜側)から立ち昇った霧が太陽に光に照らされているのではないと思うのだが、これもよくはわからない。山をアップする。光炎が斜面に沿って伸びている(写真C06:57)。
太陽が、右側の斜面から出てくるところ(写真D07:13)。太陽自体の姿は霧に隠れてはっきりしないが、稜線の陰が手前に映し出されて2本に見える(写真E07:15)。たぶん手前に霧の不連続面があり、それがスクリーンの役割を果たしているのだろう。
帰宅後、しばらくして外を見たら、100m向こうが見えないような深い霧に変わっていた(写真F07:35)。
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きらめき

国道477号、野村橋の上から見たところ。右の木は河川敷の水際に生えている。当然、増水時には川の流れを疎外するわけでいつかは伐採される運命にあるはずだが、風景としては面白い。野洲川に架かる橋には、歩道が片側だけというのが多い。この橋も歩道は下流側にある。およその撮影場所までは歩道を歩き、ここら辺りというところで車道を横断して上流側へ。人間一人分ぐらいの路側帯で欄干にへばりついての撮影である。クルマがひっきりなしというわけではないので気は楽だが。
■柿の葉紅葉追記
昨日(月曜日)、やっと晴天になった。金曜日夜の風で、葉は散っただろうけれど、散った後の姿がどうなったか。物好きにも見に行ってきた。結果思ったほどでなく、初めてみたら驚くほどの赤い広がりを保っていた。午後から雲が多くなり、必ずしもベストコンディションではなかったが。お寺の屋根をバックにもう1枚。木が根っこから折れて倒れていた。風のせいばかりではなさそうだが、倒れた木の葉っぱが、元気な木の葉よりきれいな色をしているのが不思議だった。もう1枚おまけ。
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不等号

日野川左岸、野村橋上流200mほどのところ。日野川の流れは、地図で見ると緩い大きなカーブだが、地上から見るとまるで数学の不等号を見るように鋭く屈曲して見える。ここから見ると、午前11時ごろ太陽が三上山の上に来て、川面がきらきらと光る。これは既定の事実で、あとは風の状態だけ、これによって光り方が微妙に変わる。しかし、そこまで細かいことを言わなければ、天気さえよければ普通に見える風景である。
このときはそれにプラスして、河川敷一面に広がるオギやススキの穂が光るのをイメージしていたが、ご覧のように数本の穂がちょろちょろと立っているだけ、全くイメージ外の風景だった。それでも意地汚く、何とかならないかとほかの場所をいじくりまわしていたら、対岸の堤防上の道路が、川よりさらにシャープに、まるで超音ジェット機の先端のように光っていた。
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飛行機雲

野洲市三上のいつもの場所。畑では大豆が茶色に広がっている。青い空には飛行機雲が2本。三上山上空は飛行機の通り道、音もしないからほとんど気がつかないが、注意して見るといつもどこかに飛んでいる。
飛行機雲を初めて見たのは昭和19(1944)年、小学校5年生の夏だった。雲一つない青空に何本かの白い線が見えた。よく見るとそれが少しずつ伸びていく。その先端にきらりと光る飛行機。飛んでいるとすればB29しかない。それはそれはきれいな風景だった。空襲警報が出ていたはずだが、怖さを忘れて見上げていた。
東近江市にある滋賀県平和祈念館で「空襲と疎開」展を見てきた。空襲はともかくとして、”疎開”については、どんな展示になるのだろうと多少野次馬的な思いもあった。展示するとしたら写真と文章しかないだろう。私自身も学童疎開の経験者だが、自分自身の記憶に残っているだけで、形をして残っているものは何もない。2,30年前に疎開についての学校から保護者への連絡文書(B4更半紙4分の1枚、ガリ版刷り)が出てきたが、それもどこかへ行ってしまった。結局は聞き取り調査しかないのだろう。事実それが主をなしていたが、文章は事情を知っているものが読むのとそうでないのとでは大きな差が出てくる。その点写真は強い。
そんな中で大阪から海津村へ疎開をしてきていた児童の生活記録写真が展示されていた。これがなかったら、今回の展示は苦しかっただろう。大阪の学校での出発式(校長の訓辞)、近江今津着(江若鉄道・いまの湖西線ではない)、寮到着から始まって、日日の生活記録。個人がカメラを持っていること自体が珍しかった時代、さらに物資の不足でフィルム自体が手に入らなかったそのころ。よほど恵まれた条件下にあったのだろう。引率教員中の誰かの撮影だろうが、どんな文章にしても表現できない、貴重な記録写真だった。
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