柿の木地蔵跡地

8号バイパス予定地、柿の木地蔵があった場所である。1970年代後半の姿である。柿の木がまだ若く、そして何よりも山麓の国道8号付近に大きな建物がなく落ち着いた風景を作っていた。この風景が国道8号バイパスの予定地に含まれ、地蔵さんも柿の木も姿を消した。おそらく地蔵さんはどこかへ移されたであろうが、柿の木は伐採後その場で焼却された。
前方に並ぶ杭までが予定地である。いまさらという気持ちが強いが、以前あった風景のためにも、今後この地がどう変わっていくのか、可能な限り撮影を続けていくつもりである。なお1970年代撮影の写真と現在の風景との整合性を示すのは、画面右端遠くに見える、屋根が光っている民家と三上山の右裾との関係のみである。
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暇な人のための・2

忙しい人は読まないでください。
株式会社ダイアナの前、農業用水が県道をくぐるあたり。画面を水平に横切るのが県道と垂直な農道。右端、御上神社の方へ伸びるのが農業用水沿いの農道。これが撮影場所のアリバイである。ここから見て、三上山山頂のほぼ真下に煙抜きが1つ見える。昨日の標題写真の左側のものである。右側のは新しい家の裏へ回って見えない。
少し進んで農業用水路の真上から。この絵はいままでからいやというほど撮ってきた。ちょっと見ると煙抜きが2つ並んでいるように見えるが、屋根を拡大してみると、光っている方は普通の屋根らしい。ということでこれはら2枚は場所も変わらないので、煙抜きの見え方はほぼ同じ。
もう少し進むと様子が変わる。いままで三上山ばかり見ていて、このような向きの民家をあまり注意して見てこなかった。右側の新しい家のすぐ右、青い屋根の家など、いい面構えだ。大正後期から昭和初期にかけての電気機関車の面構え。近江鉄道の彦根駅へ行くとこんなやつがいる。冗談は別にして、何とここから見ると煙抜きが3つも見える。奥のクリーム色の建物を中心にして、左に1つ右に2つ。
日本家屋の構造上、いわゆる総2階の建物にはつかない。それより一段背の低い中2階の屋根に着く。だから屋根の重なりで見えないことが多い。注意して探せば、まだまだ残っているのかもしれない。
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暇な人のための

忙しい人読むべからず。暇な人のための煙抜き講座。
三上集落の屋根がきらきらと光っていた。県道504号、バス停・「河川公園口」近くの家庭菜園。手前にその一角を入れたのは深い意味があったわけではない。ただ田んぼだけでは撮った場所が分からないくなる。いわゆる場所のアリバイのためである。そのあと20mほど左へ寄った。画面には入っていないが手前に水路があって、向こう岸にアジサイが植わっている。時期が終わって枯れているので、小さい花をちょっと入れておいた。これもアリバイのためである。以上2枚、とったのは屋根がきれいに光っていたからである。
その屋根の光りにつられて、帰ってからPCで、屋根の部分を拡大してみていたとき、アレ?、こんなところから。煙抜きが2つ見えたのである。あれは6月の末だったか、煙抜きが2つ並んで見えるのを、もっと近くからレポートした。それとほぼ同じ見え方である。そしてもう1枚は?と見ると、これ以上左へ行けば見えなくなるという、ぎりぎりの場所である。
うんソレで?、それが何が面白いの・・・。だから、忙しい人読むべからずというたでしょうが。以下明日。
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メガネ木受難・3

今年の春3月末、朝日放送『今日のココイロ』ロケで、ディレクター・K氏が『近江富士百景』のトビラべージと現在の風景とを見比べているところである。この木に出会って40年、何の障害物もなく撮影できたのは最初の2,3年ではなかったか。すぐに県道の工事が始まり、それの完成とともに電柱が立ち、フェンスができ、急速に風景は崩れていった。そして今、記録として残っているのは、最初の1977年05月と、途中の2002年11月のみ。そしてもうおそらくこの木の姿を撮ることはないと思っていたところでの『ココイロ』ロケだった。
番組は2分、”八田さんの40年を2分にまとめるには・・・”と、K氏がいくつか選んだうちの一つがこの木だった。自分で撮る場合は、メガネ部分に集中して全体像を撮ることはなかった。それが今回の案内で、偶然撮った写真が標題写真である。そこに写っていた上半身がいまはない。不思議な因縁を感じる。
そのときの撮影風景(テレビ番組を普通のカメラで・・・。そうか、動画を使えば同じだもんな)と、オブジェのように残されたメガネ部分と祇王井川(手前の川)。クルマが走っているのが県道。
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メガネ木受難・2

近江富士百景「めがね木」、撮影は1977年。写真集発行は1994年10月。17年の隔たりがある。その間に木のすぐそばを県道504が開通し、中国塗料のネットが立った。
いま思うと『近江富士百景』はいい加減な編集をした。1976年以来撮りためたフィルムを選択するだけで、現場を見直すことなく、記憶だけで文章を書いた。今確かめると大きな間違いが随所にある。2000年になって、それまでの写真集をデジタル化しようと思い立った。『百景』の間違いをただすつもりで、すべてのポイントを再確認して歩いた。その仕事の一環として、2002年、このメガネ木を訪れた。木は成長しいつの間にか中年太り。何とも情けない姿になっていた。その時撮った正面からの姿。川の向こうは竹藪である。現在の状況。
上半身を切られたメガネ木は、さいわいメガネ部分を残している。40年前と同じ構図で撮ろうと思えば撮れる。しかしこれでは何ぼなんでも無理だろう。そのイメージを残しながら、何とかならないかとひねったのが標題写真である。
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メガネ木受難

また一つ名物が消えたというべきか、かろうじて残ったというべきか。つい半月ほど前、誰からだったかはっきり思いだせないが、「メガネの木の上半分が1本切られましたよ」との情報をもらった。撮りに行かなければと思っているうちに1週間ほどたった。「もう1本も切られました」。しまった。ワシはいつもこれや。しかし、切られたものは仕方がない。でも下は残っているというのだから、とにかくその記録だけでも…というのが標題写真。メガネとしては存在するが、木としては存在しないという妙なことになっていた。方足を上げて「く」の字に曲げたような、木というよりは1つのオブジェのような姿になっていた。
”メガネ木”(1977年5月3日撮影)、写真集『近江富士百景』の扉写真として使った。根元が1本。それが2つの分かれて輪を作り再び1本になる。その後また2つに分かれて2本の木になっているという面白い木だった。トビラに使った写真は。ちょうど40年前の撮影だ。写真では上が1本にしか見えないが、もう1本はいま見えている木の向こうにある。上の方の2本を見せようとすると三上山が入ってこない方向になる(2002年11月撮影)。以下明日。
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ここでも城山

8月、月は変わったが話は昨日の続きである。実はきのうの日向山山麓まで栗東市伊勢落の旧東海道沿いの集落を少し歩いていた。そこで撮った写真。特に深い思いがあったわけではない。道沿いの水路のきれいな流れと、色づき始めたイネとの対比に魅かれて撮っただけの写真である。田んぼの向こうにぽつんぽつんと立つ電柱2本は草津線架線の支柱。電車が来ないかと考えたが、いつ来るか分からない電車を相手にこの暑さではとてもとても。
昨日、六地蔵で見た城山、この写真を撮るときはそれが見えることなど何も考えてもいなかった。ひょっとしてと見直してみた。それが写っていたのである。もちろん三上山の右、草津線の電柱のさらに右に。もちろん現場では気がつかなかったものである。それはそうだろう。竹藪の上端をかすめるように、精いっぱいの背比べなのだから。
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