新生橋

バスに乗った。誰しも感じることだが1mほどの高さの差が新鮮に感じられる。1号バイパス岩根交差点西側に建設中の大型複合店、12月中旬オープンに向けて急ピッチで工事が進められている。交差点を右折して新生橋に向かう。去年の今ごろは田んぼの向こうに三上山が見えた。それが今はこんな状態。人間が動けば風景は変わる。
そして新生橋。いつもここから撮る場合は、橋のたもとにクルマを置いて、下流側につけられた歩道を歩く。きょうはバスの中から待ったなし。振れがあるからレンズを伸ばすことも躊躇される。いつもは苦労して避けている大きな倉庫も、今日はどうにも仕方なし。その代りレンズを伸ばすと絶対に写らない橋のすぐ下の野洲川の流れが入ってくる。そんなちょっとしたことが新鮮に見える。きょうはもう11月22日。比良に初雪が来るのももうすぐだ。
写真ステージ 「近江富士」
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琵琶湖を前に・2

萩の浜水泳場から新旭風車村に向かう湖周道路(県道304号)が安曇川の少し手前で小さな入り江を渡る。新金丸橋である。昨日の萩の浜水泳場から4Km強北東へ(三上山に向かっていえば左へ)移動したことになる。橋の高さは湖面から数m、ほんの少しだけど湖面を俯瞰する形になる。
三上山は下半分をその前に横たわる沖島の陰に隠す。背後の山は、萩の浜から見たとき、右手に見えていた金勝山が三上山を越えて左手に回ってくる。なお国土地理院の地形図には「金勝山(こんぜやま)」という山名はない。栗東市から紫香楽へ抜ける県道12号が金勝の坂を上り切ったあたりにある植樹祭公園(道の駅金勝の里りっとう)の西、金勝寺が建つ山である。
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琵琶湖を前に

高島市萩の浜水泳場の浜続きにある「大阪市びわ湖青少年の家」の前庭から。琵琶湖大橋の南、いわゆる南湖の西岸、堅田、雄琴などから見た時、三上山は東に見える。その感覚を持ったまま湖西路を北上すると、いつまでも三上山は東にあると思い込んでしまう。気がつけば大きな方向違いを起こしてしまうことになる。たとえばここ高島市勝野。太陽が三上山から昇ると考えていたら大間違い、三上山は南にあり、朝日は遥か左手の方から昇ることになる。
話がそれた。本筋に戻そう。右から突き出てくる黒い岬の突端に国道161号の標識が見える。その向こう側が白髭浜である。琵琶湖大橋からここまで、三上山は標高の高い鈴鹿山地の前に立つことになり、山頂が鈴鹿の稜線の下に入ってしまうことが多かった。それがここへきて山頂が奥の山の稜線上に出る。すっくと立つというイメージが強くなる。その奥の山はもはや鈴鹿ではない。左の高い山が石部の阿星山、手前は三上山の左が田中山。その奥に見えるのが湖南市の菩提寺山その左徐々に高くなるのが十二坊。
・・・?、どこかで見たぞと思われる方が一人でもおられたら、高島市くんだりまで来た価値があろうというもの。実はこの山の並び、何日か前にXX承水路シリーズで見てもらった写真とほとんど同じラインアップなのである。標題写真を拡大したもの。どちらも三上山から見て真北の方向から撮っていることになる。でも承水路シリーズの写真は三上山や田中山が大きく見えるよ、とおっしゃる方がおられるかもしれない。承水路からの三上山はたかだた8Kmほどの距離。こちら高島市は琵琶湖を挟んで27Kmほど。本当の山の高さは距離を置いて見みてはじめてみえてくるということである。
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ふさがれた展望

旧野洲川南流跡地に開かれた「びわこ地球市民の森」(この三上山日乗では勝手に「地球の森」と呼んでいる)。国道477号、通称浜街道の”JAおうみんち”から約1Kmほど北西へ進んだところで、旧南流が大きく右に曲がっていたところである。
樹木が多く見通しがきかない他の場所に比べて、ここは広々とした展望に恵まれていた。木製の橋が架かり、 ずっと遠くに三上山が見えた(2010年6月撮影)。私はこの風景に特に愛着を持っていた。江戸時代の画家、谷文晁が三上山を描いた場所を求めて、一旦はここがその場所ではないかと考えた場所だった。(別項・谷文晁が見た三上山・その後、京都外大教授H氏のアドバイスなどがあり、現在では栗東市六地蔵だと考えている)。
その大きな空間に学習施設と大型遊具が設置された。橋からの展望はふさがれご覧のとおり。人間が住めば景観は変わる。私が住んでいる家も風景を破壊した。しかし、今の場合、なぜこの場所なのか。樹木に囲まれた狭い空間でもよかったのではないか。標題写真は橋から40mほど右へ移動した場所から見た大型遊具。
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晩秋・6

同じ場所。畑の横にちょっとした空き地があり、何本か木が生えている間に石灯籠や大きな石が雑然と置かれている。と書くとひょっとして庭園かも知れないと考えられる節もあるが、それにしては雑然としすぎ。そこのところがもう一つはっきりしない。あまり深くも考えないで撮ってきたが、飛び出た石と三上山が上下同じ形に収まってしまった。
こういう重なりは撮ってるときはほとんど気がつかず、帰ってからパソコンの画面で見てはじめて気がつくことになる。で改めて撮り直しに行くと、今度は妙なぎこちない絵になってしい、力不足を改めて認識することになる。石はともかく、灯籠は意識しないはずはないのに、ヘンな位置に収まっている。まともなところへ置けばバックの木が邪魔をしたのだろう。と、まあ言い訳だらけの写真、他に持ち合わせがなかった。お許しを。
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晩秋・5

国道477号兵主大社南交差点から家棟川の方へ100mあまり走ったところ。地図で見ると野洲市五条と六条との境あたり、素人目には区別はできない。国道沿いにちょっとした空き地があり、石灯籠が立っていたりするかと思えば、農機具の小屋があったり、一部が畑になってたりする。まあそんなところで、トータルとして何なのだといわれるとよくはわからない、そんなスペースがある。以前から気になっていたが、今回初めて車を止めた。
そんな中で、今回はちょっとした畑を前景に持ってきた。いまごろ急に何やねと言われそうだけど、1993年月の写真である。片や初夏のレンゲ畑、片や秋の家庭菜園。あまり雰囲気が違い過ぎて、理解してもらえないかもしれないが、前景を捨てて遠くの山を見比べると、20年前と今とで、その組み合わさり方が似ているのがお分かりいただけよう。三上山の右後ろが石部の阿星山である。ざっと見ただけでは組み合わさり方は新旧両者同じに見える。さらには画面左端のぼこんとした山、これが田中山だが、その右に見える遠くの山も両者ほとんど同じに見える。ただし100%一致するかといわれると微妙なずれがあると言わざるを得ない。
結局何が言いたかったのか。20年前のレンゲ畑が、標題写真の大豆畑の向こうあたりの田んぼだったということである。今年5月の撮影をもう1枚。
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晩秋・4

承水路からそれる。といっても200m足らずだけど。これだけ移動しただけで風景がガラッと変わる。水茎町、県道26号沿いのポプラ並木が入ってくる。ポプラというとすらっと背が高いのが売りだが、ここのはドングリの背比べというイメージである。
思い返せばもう40年近くにもなる。三上山を撮りだした最初のころ、水茎町といえば昔ながらの内湖が広がり、田んぼの段差に、2本、3本とポプラが立っていた。今の近江八幡市廃棄物最終処理場のあたりである。いかにも心のふるさとというイメージで、高い青空がよく似合う場所だった。
その後まもなく、内湖が埋め立てられたのが変化の始まりで、その締めくくりがこの並木の景観の変化だった。いまから10何年か前、台風でこの中の数本が傾く被害を受けた。並木は上半分がバッサリ切り落とされた。何とも哀れな姿だった。最近やっと元に復しつつある。このとき根元からやられていたら、今の風景はない。
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晩秋・3

XX承水路の続きである。この「XX」について、近江八幡のTさんから子供のころの記憶として、「牧」承水路といっていた記憶があると電話をいただいたが、牧は岡山の東で、今私が歩いているのは西である。上流の小田町あたりで分岐した水路が牧町で琵琶湖へつながっている。Tさんがおっしゃっているのはそちらの方であろう。
ということで、呼称の方はちょっと置いておいて、きょうは別の話を。撮影位置はきのうの橋から上流へさらに400mほど上流側へ(といってもこのあたりでは、ほとんど水は流れていないが)進んだところ。流れが大きく右へ曲がる所である。三上山から画面左端の城山(傾いた台形)までの間、山が複雑に入り込んでいる。当該部分を拡大する。
三上山の左。色の濃い山が大きく2つ、丸い大きな山がハタフリ山。その左、尖っているのがカブト山。2つを総称して田中山。その左、一番奥の高い山が石部の阿星山。その手前に菩提寺山。守山市地球の森あたりから見ると三上山の右に見える。菩提寺山の左、なだらかに高くなっていく山が十二坊。その手前に独立して大きく見える吉祥寺山(銅鐸博物館の前あたりの山)。そして左の城山。
そうそう、一つ忘れていた。三上山の手前に妙光寺山が横たわっているのだが、写真では両者一体となって全く区別できない。
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