暮れる

昨日と同じ太郎坊での話である。三上山を撮りだして2年目ぐらいのころ、三上山に太陽が沈む場所を探し続けていた。夏至の日、甲西町(現湖南市)の十二坊山頂から見ると、太陽が三上山に沈むはずだ。そのころはまだ、山頂にNHKのアンテナが1本建っているだけだった。梅雨のさなかとは思えない快晴のその日、アンテナの横に立って太陽が右下向きに三上山めがけて沈んで行くのを見た。感動した。1970年代の終わりごろで、当然コンピュータなんてものはお目にかかることすらできなかった。理科年表から落日の方位を調べ、地図の上に線を引いての作業だった。
では冬至の場所はどこだ。それが太郎坊だった。夏の十二坊、冬の太郎坊。これは面白い。調子にのって下見に行った。細い岩の隙間から頂上の一部が見えるだけだった。いまならそれも三上山だと割り切ってはいるが、当時は野洲町内の近場から大きく見えるのが三上山だった。これは無理や、そう思い込んだ。
山頂から写真を撮った日、日没に合わせて下山した。そそり立つ壁とお堂との間に三上山が見えた。太陽は左上、水平にたなびく雲がアクセントだった。その日は12月28日。冬至から一週間、多少のずれはあろうが・・・。結局その日は、太陽は三上山に接することなく沈んでいった。いま私たちは、紙と定規の時代には考えられないことができる。カシミール3Dで12月22日のシミュレーションをしてみた。ごくわずかに接するようである。来年の冬至には・・・とは言わない。
写真ステージ 「近江富士」
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太郎坊山

写真仲間・佐々木さんのHP「むどらしか」に太郎坊山ウォーキングの記事が出ている。安土町内野から十三仏へ登り、尾根伝いに箕作山経由で太郎坊宮へ下ったという。太郎坊山は正式名称を赤神山といい太郎坊宮(阿賀神社)の背後にそびえている。実は写真集『近江富士まんだら』にOさん撮影の山頂からの写真が載っている。そのあと、私も登ってみようとして太郎坊まで行ってみた。ところがどこを探しても登り口が分からない。Oさんに聞けばいいのだが、その前に”こんなきつい山どないして登るねん”とあきらめてしまった。
佐々木さんのレポートを読むと、太郎坊からの上りはいったん箕作山のほうへ登り、途中から切り返して山頂へ向かうらしい(佐々木さんは逆に歩いているわけだが)。なるほど、そういうことだったのか。昔の蒸気機関車時代、勾配区間にあったスイッチバックというやつだ。それならわかる。よーし、再挑戦。
境内のハイキングコース入り口から35分だった。登りついて最初に見る風景がこれ。ど真ん中で高原状に裾を広げている鏡山が見え、その左に菩提寺山が目立つ。三上山はというと鏡山のすぐ右に頭だけが見えている。鏡山に近いがためにかえって一体化してしまって目立たない。べつに菩提寺山に恨みがあるわけではないが、私としては三上山を表に出さないと形にならない。それともう1つ、野洲の田中山、右の方に見えるちょっと色の薄い山である。特にいちばん右の尖った山がハタフリ山。佐々木さんも書いているように、岩戸山・十三仏が中継場で、そこから旗を読んだ。なるほどこのてっぺんなら目立つ。それでまとめたのが標題写真である。もう1枚おまけ。
話が前後したが、石段の途中にあるハイキングコース入り口。前回来たときなぜこれが見つからなかったのか。そのときにはまだこの案内がついていなかったのか(また人のせいにする)。逆回りして上から下ってきたから気がつかなかったのか。それとも山の姿に気後れして、最初から逃げ腰だったのか。
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サル技

近江八幡市御所内町の田んぼの中に大きな森がある。きょうの写真の撮影場所がその森の前だというだけで、内容的には特別なつながりはない。森に前もうしろもないのだが、神社の前だからやっぱり前だ。と書いて地図を確かめたら「加茂神社」とある。いや、そんなことはない、間違いなく出雲神社だった。地図が間違っている。と、ここでやめたらどえらいことになっていた。念のためと思って拡大していったら、その横に「出雲神社」が現れた。縮小されているときは加茂神社だけ、そのあと拡大すると出雲神社が現れるわけ。念のためにと思って、紙の地図を調べたら出雲神社だけが載っていた。地図の編集の難しいところだ。
その出雲神社の前、どういうわけかわからないが高圧線が2本並行に走っている。あんまり並べるのもどうかと思って一番手前の2本を重ねた。木が多いときなど手前の木で後ろの木を消す、よくやる手だ。同じ手を使ったのだけど、これは失敗だった。鉄塔で鉄塔は消せない。余計目立つだけだ。そしてよく見たら、左の1本が鏡山の最高点と重なっていた。しょうもないサル技でした。
ついでにサル技をもう1つ。久しぶりに花緑公園へ行ったら、高圧線の下の木が伐られていた。管理のためだろう。これ幸いと、カメラを水平に保持する練習をした。100%間違いないはずだけれども、PCで見ると傾いている。修正した。ディスプレーに定規を置いて・・・間違いないはずだけれども、ボクの目にはなんとなく傾いて見える。やっぱりサル技だ。申年ではないのだが。
■きのう、三上山と菩提寺山とがよく似ていることを書いたら、守山市のメアリさんから、”飯道山の頂上から見ると、菩提寺山と三上山の外観はビックリするほどそっくりです。神業としか考えられません。”とのメールをいただいた。そうそう、それを忘れていた。あれは人間のつまらん迷いではない。ホンマ神業やね。手前の菩提寺山が見えるかな。
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煩悩

甲賀市土山町、国道1号に徳原という交差点がある。県道183号の始点で北進すると日野町に至る。いまは反対の南へ。広域農道が野洲川へと下り、橋を越えて左岸の農地を登り詰めたところ。西側を見ると一番手前に水口市街地の城山。その向こうに十二坊。その裾から三上山が見える。拡大してみると、その左、紅白の鉄塔の横にもう1つよく似た姿が見える。菩提寺山である。写真がもう一つはっきりせず申し訳ないが、見る場所によっては実によく似ている場合がある。
その昔、雪野山へ登ったときには、完全に見間違えた。三上山だとばかり思っていたピークのすぐ横にホンマの三上山が現れてびっくりした記憶がる。三上山が他の山に化けることはないが、その逆はよくある。日野の正法寺の裏山から見た雪野山にもだまされた。この山とはまだ距離があるが、菩提寺山は見方によっては、ホンマにくっついて見える。多分このあたりだと予測して見るから余計に騙されやすい。今日あたりエエ儲け話が来るのではないかと思っているから、XXサギに騙される。すべて人間の煩悩。
野球のボールの縫い目は108本(針?)だとか。シャチョウがテレビから仕入れてきた。ウチにボールあったな。ホンマや、3個とも108つやという。煩悩が詰まった球を打ったり投げたり。何でうちに野球ボールが3個もあるか。そんなしょうもないことを考えるのも煩悩。なかなか焼き尽くせませんな。
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鴨川大橋から

鴨川は安曇川より南を流れる。高嶋バイパスでいえば、その間の直線距離2.6Kmほどである。今津から南向きに走るとき、そのあたりで三上山が見えることは、かなり以前から気がついていた。右岸堤防上からは2010年12月撮影の写真が残っている。ここは安曇川と違って湖岸の集落までの間がほとんど農地で撮りやすい。しかし鴨川大橋に歩道があるとはつゆ知らず、右岸堤防の道路上からの撮影でよしとしていた。
今回、歩道の存在を知り改めて撮影をした次第。右岸堤防に竹藪があり、三上山が見えるのは、橋の右岸側半分ほどに限られた。標題写真はそのぎりぎりのところ、これ以上左岸側へ進めば見えなくなるという場所。言い換えたら鴨川大橋上を南進するクルマから見て、堤防上の竹藪の影から三上山が初めて姿を現す点である。それが偶然にも2010年撮影の風景とほぼ同じアングルだった。
ビニールハウスの数は増えているが、三上山と重なって見える箱型の建物と、その右の3本の電柱は変わっていなかった。その電柱、2010年版では右の1本が高い。ところが2015年版では3本とも同じ高さになっている。よく見ると右の1本は集落の手前畑の中に立っているのである。高いのではなく近かったのだ。橋は堤防より高い。三上山が高く見えることは言うまでもないが細部の見え方も変わる、新たな発見だった。もう1枚おまけ。
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安曇川左岸から

新旭町の大荒比古神社の近くからこんな風景(12月20日前出)を見た日、帰路、高島バイパスの新安曇川橋を渡っていて、ことのほか三上山が大きく見えるのに気がついた。この日は清水山城址の項で書いたように、背後の金勝山系が消えるという特殊な気象条件の日だったが、それにはまだ気がつかず、橋の上から三上山が大きく見えるということだけに気をとられていた。
バイパスはそのまま進んで鴨川の橋を渡る。三上山がさらに大きく見えることは言うまでないが、それよりももっと大きなことに気がついた。橋に歩道がついていたのである。高島バイパスには全線歩道がない。ところが鴨川大橋の部分だけには歩道がついていた。これはひょっとしてと、帰宅後GoogleMapの航空写真で調べてみた。間違いない。安曇川大橋にも歩道がついている。それも下流側(三上山側)に。橋は堤防より高い。
高島バイパスの安曇川大橋から三上山が見えることはかなり前から知っていた。2012年8月13日の日乗にもこんな写真をのせている。以下、その日のコメントである。----国道161号を北の今津町あたりから南に向かって走ると、安曇川を渡るあたりで三上山が見えるのに気がついた。平地からは見えるはずはないので、高い場所が必要。安曇川の右岸を走ってみた。クルマ1台がやっとの部分が多く、余り気持ちはよくなかったが、それよりも電線が多いのには驚いた。三上山の右上の高い山が金勝山。----
今回の写真は左岸畔の親柱上にカメラを置いて撮ったもの。屋根の上が右岸堤防。前回(2012年)は、この堤防上から撮った。今回の方が整理されていることは言うまでもない。もう1枚。橋の中央辺りから。奥に萩の浜水泳場の松並木。
ついでにもう1枚。これは2012年、湖岸道路近くの右岸堤防上から撮ったもの。バイパスより左へ寄っているため、金勝山が左へ寄った。萩の浜水泳場の松林は消えている。
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番外編・びっくりしたぞ

稲荷山古墳のすぐ近く、鴨川に架かる県道の橋である。前後にクルマはなかったからのんびり走っていた。と、「天皇橋」との碑が見えた。通り過ぎてしまったが、これは確かめてみる価値はあるな。
で、引き返してきて撮ったのが標題写真。何となく歪んでいる。橋の親柱が傾いているはずはなかろうから、石碑が傾いているのだろう。老いぼれたけれど、こう見えても元軍国少年の端くれである。当時なら、石碑が傾いていたらどんなことになるか、いや、それよりも橋の名前がどえらいことでして。ホンマにこの橋の名が、「天皇橋」なのか。親柱を見て回った。確かにその名が刻まれている。正式名称らしい。
碑の側面に何やらこまごまと刻まれているが、それより前に親柱の上面に何やらでかい字が刻まれている。これを地面に立って読める人がいるのだろうか。仕方がないから、石碑の横にあるコンクリートの台に上がって読んでみた。まいったなーこれ、意味が分からない。書いた人がいるのだから、分かる人にはわかるのだろう。世の中には難しいことがあるものだ。
”斜め十字に交わる2本の直線”というのだから、要するにX字型のものだろう。その交点を巡る円弧の模様を直弧文というらしい。早い話が、円をいくつか重ねた矢を射る的のようなものに、算数の掛け算の記号を重ねたような文様ということになるのだろうか。実際にはそんなに単純ではないのだろうが。これが高欄のデザインに取り入れられているというのだが・・・、そんなデザインはどこにもない。初めから終わりまでわからないかった。私の歴史的知識のなさによるものだろうが。
最後に碑文をそのままUPしておこう。----”この辺りはこの橋のほかにも、「てんのう」と名のつく田や川や坂があります。これは近くに継体天皇に関係の深い鴨稲山古墳や明治の始めまで天王社とも称したという志呂志神社などがあるため、この名前で呼ばれてきたものと思われます。”----
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番外編・稲荷山古墳

地図で場所を確かめ、日を改めて出かけていった。現地の案内板によると、”明治35年県道拡幅工事の際に発見された前方後円墳云々”とある。きのうの標題写真はその県道から撮ったもので、「稲荷山古墳」の文字は麗々しいが、辺りには小屋が一つあるだけ。例の石棺はどこにあるのか。といっても、小屋の中しか考えられない。覗いてみれば記憶にあった特異な形の石棺はそこにあった。
入り口は施錠されている。窓ガラスにカメラをくっつけて撮ったのが標題写真。軒下に昭和62年3月付の掲示があって、”石棺の風化が激しくやむを得ず覆屋を建てた。この工事に当たっては地元住民が浄財を喜捨し云々”とある。風化か・・・。古墳の石室内にひっそりとというならともかく、むき出しになってしまえばつらいわな。
写真集『湖愁近江路』に載っていたのは、この覆屋以前のものだったらしい。石棺の横に柿の木でも生えていたらというイメージでやってきたけれど、これは夢だった。それにしてもこの覆屋、もうちょっと何とかならなかったのか。こうして一人で飛び込みでやってきた場合、外から見るしか仕方がないのだから。特に辛抱できなかったのは、ガラスに貼ってあったフィルム。これはいかん。プロのやることではない。もともとこういう文化財を、強い直射日光の下で保管すること自体無茶な話だと思うのだが。
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