三雲を歩く

三雲で荒川沿いを歩いた。一言でいえば大日不動から見て県道4号の反対側である。住宅と農地が混在する。三雲東小口という交差点の近くで三上山が見えた。初めての風景である。ちょっとでもでも高いところへとバックしたので、前を横切る道路の電線を避けなければならなくなりレンズが長くなった。右側に見える森は立志神社のものらしい。地図で読むと550mほど離れている。その手前を荒川が流れていることになる。と、考えると左奥、丘陵斜面の住宅地は吉永ということになる。ホンマかなと首を傾げたくなるが、地図を見る限りでは間違いなさそうである。
ついでに副産物をもう1枚。荒川谷筋から見る城山である。画面左奥のほう右上がりの台形の山。反対側・近江八幡側から見ると左上がりに見える。何でこんなところからと思うが間違いはない。JR草津線でいえば甲西・三雲間。飯道山から流れ出る川でいえば家棟川から南の荒川までの間。山手からその気になって探せばまだまだ見えるところはあるはず。面白いぞ。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


三雲でお遊び

いま、野洲川分水嶺探訪で荒川を尋ね三雲で遊んでいる。9月08日の荒川河口などもその副産物である。その流域を地図で見ていて、大日不動が近くにあることに気がついた。簡単に呼んでいたが詳しくは「三雲大日大聖不動明王」とある。
ここから三上山が見えるのに気がつき雪の比良山をバックにしたのが、1997年2月、いまから20年前だった。1976年から撮り始めて20年かかっている。場所探しとしては結構難しいところだった。以来、三雲といえば冬、それも望遠でと相場が決まってしまった。荒川遊びがなければ秋のこの時期に来ることはなかっただろう。三上山のすぐ右の平らな稜線が妙光寺山、その右が天山。望遠では見えない新しい風景である。20年前はもう少し左にある畑からの撮影だったが、いまそこに立っても桜の木が伸びて山は見えない。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


瀕死の風景

野洲市三上の農地、背後すぐ頭の上が新幹線である。写っている1本道は、私が数学のY軸に例える農道。それに対して、遠くの集落までの中ほどに左右に横切る農道がある。それがX軸。その交点付近を左奥から右手前へ、8号バイパスが通工事中。いま立っているこの場所は工業団地になるとかで、一時地質調査などが行われていたが、この半年はそのままに放置され、鳥と虫の天国になっている。
いつだったか、バイパス予定地で行われている埋蔵文化財発掘調査の様子を見ようと農道を歩いたら、20mほど先からケリが飛び立った。最初は2,3羽、いつもの様子で驚きもしなかったが、そのあとから続くつづく、きっちり勘定できなかったが、10羽は間違いなかっただろう。数年先にはバイパスが風景をふさぎ、ケリの天国には工場が建つ。この風景は消え去る。まさに瀕死の風景である。
しかし、よく考えてみると50年前には新幹線が風景を塞ぎ、120年前には東海道線もまた。そして我が家も。大きなことは言うまい。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


不覚

旧東海道沿いの六地蔵会議所の前から軽トラ一台の細い道が農道へ続いている。稲刈りもすでに終わり、途中の家庭菜園でオバちゃんが何か作業中。ここまではいつもと変わらない風景だが、草津線沿いに濃い緑のベルトが横一線に見える。大豆らしい。
ここへ青大将が来たらどうなるだろう。電車はあと数分で来る。結論はわかり切っているけれど、証拠写真だけでも撮ってやろかとぶらぶらしていたら、竹竿を持って帰ってきたオバちゃんが、「電車待ったはるのん、ここのはなかなか来んから」。・・・家は近くらしい。竹竿を置いたおばちゃんはすぐ引き返してきて、「まだ来いひんな」と声をかけてもう一度出かけていった。
オバちゃんが畑へ着いてすぐ電車はやってきた。証拠写真。見えますかな青大将が。引き返していくオバちゃんの後ろ姿の方がよほど絵になったんだけど。なんで撮らなかったんやろ。不覚。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


青大将

肩がえの松広場からの撮影を終えて、とにかくこのときの目的は果たしたのだが、せっかく来たのだからと東海道を歩いてみた。街道筋から裏手へ回ると農地が広がる。葉山中学校が真正面に見えるところで、左の体育館が西日を受けてしんどい。北向きの撮影になるので、午前中の早い時間帯ならともかく、いつ来ても難しい。仕方がないなと帰ろうとしたところで草津線の警報機が鳴りだした。しめしめ電車で隠せるぞ。
やって来たのは青大将。これではアカン。まあしかし体育館を隠すだけなら目的は達したことになる。まあとにかく撮っておこう。これが標題写真。帰ってからPCで見直してびっくりした。撮った時には単純にグリーンとオレンジのいわゆるカボチャをグリーン一色に塗りなおしたものだと思い込んでいた。ところが実際はその昔東海道線で初期の新快速に使われていた2扉肌色の117系を塗りなおしたやつだった。撮るときにちょっと長いなと思ったのは、そのせい(6両)だったのだ。高校生のころには車両の一部分を見ただけで形式の見分けがついた。以来60年なまったものだ。足元を見たら、お前はあほかといわんがかりに彼岸花が咲き始めていた。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


でかい建物

みどりの村からの写真を撮っていて、もう一か所変化しかけている場所を思いだした。栗東市小野の旧東海道沿い。GoogleMapには”東海道小野村肩がえの松”とあり、現在もちょっとした松と案内石標が建っている。でかい建物が邪魔をして写真にはならないが、そこの広場から三上山が見えた。去年の夏、その裏の風景が変わり始めていた。
さて現在の状態。標題写真が肩がけの松の空地から撮ったもの。もうあと1年もすれば住宅で見えなくなる。そうなってしまってから”以前はここから三上山が見えた”と頑張ってみても何の意味もない。とにかく2017年現在、ここから三上山が見えたという記録である。もう1枚。いまのあいだにと、住宅地内から撮ったもの。標題写真を含めて、でかい建物が写っている3枚には、すべて白い三角壁の家屋が見える。これで撮影位置が読めるはず。
余談だが、去年の夏、ついでに撮ってきた写真。これだとどこを撮ったのかさっぱり分からなくなる。三上山を画面に入れると少なくともカメラの方向は明確になる。三上山を撮る意味はこれだと考えている。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


みどりの空地

湖南市菩提寺、そのうちの名神高速沿いの新しい住宅地。航空写真を見て驚いた。みどりの村という交差点があって、その北に広がる農地。そこだけがぽかっと穴が開いて、周囲にはぎっしりい住宅地が広がっている。標題写真はみどりの村交差点付近から見た三上山である。今回そこに立って驚いた。ただの空き地になってしまっている。
いままでは緑・黄色と季節によって表情を変える農地だった。時にはコスモス畑に変身しイベントが行われていたこともあった。それが勝手に草が伸びるただの空き地になっている。いうまでもない、これは変化の前ぶれだろう。この風景がふさがれてしまうのもさして遠い日ではないのだろう。
と、ここまで書いて、こんな口から出まかせの詠嘆調ではいかんぞと調べてみた。2016年11月05日。すでに空き地になっていた。その前はというと2014年03月23日。これは明らかな農地。少なくともこの間に何らかの変化があったことになる。コスモスはもっと以前のことだった。光陰矢の如し。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


芙蓉の花

花緑公園、森林センターの前を通り過ぎて、?・・・あれは芙蓉ではなかったか。もともと花が咲いている場所ではない。そこに大柄な薄いピンク色の花が咲き乱れていた。あれは確かに芙蓉だった。花音痴の私がわずかに見極められる花である。どうにも気になるので舞い戻って確かめに行った。
40年前だったか、いやひょっとして50年前。北信濃・野尻湖。いまはどうなっているかニュースもないが、当時、毎年一回湖の水を抜くのを機に、湖底の発掘が行われていた。そしてナウマンゾウの骨格化石が発掘された。ある年の夏、地元の地学の先生の話を聞いた。これは本物ですと担ぎ上げられた臼歯を今でも思いだす。そしてそのとき、野尻湖が「芙蓉湖」とも呼ばれていることを知った。湖の形が芙蓉の花に似ているという。
そうして何年か後の夏、木曽路・馬篭の藤村記念館。庭に咲いている大きな花を見た。聞けば芙蓉の花だという。これが芙蓉か。随分遠回りだったが芙蓉の花が実体となったときだった。(山旅・穂高から三上山まで・1968年8月・あのころの馬篭、妻籠、田立の滝)。
森林センターの前で見たその「フヨウ」。何度打っても”不要”と出る。もうやめろということだろう。新田次郎・『芙蓉の人』を読んだのはそののちのことである。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば

