数秒のよそ見

家を出てから考えた。さて今日はどこへ? 一番アカンことだけれども・・・。ふと頭に浮かんだのが茶臼山公園。3年ほど前だったか、わいわい村を続けていたころ、守山のKさんが「茶臼山公園へ行ってきました」と三上山の写真を送ってきた。大津の国道1号の山手、一通り確かめたつもりだったが、そこは未知の場所だった。これは行ってみなければと思いつつそのままになっていた。確か国道の「秋葉台」を入ればいいはずだった。駐車場が心配だったが案ずるほどもなく行き着いた。
そこまではよかった。ところが三上山が見えない。Kさんの写真には確かグランド風の広場に大きな木が写っていた。その木は見える。ところが三上山は見えない。おかしいなと思いつつふと見ると、日蔭のあずまやで絵を描いている男性がいる。もっと明るい暖かいどころで描けばいいのに・・・、とおせっかいなことを考えながら通り過ぎた。グランドの端まで行っても見えない。その斜面に裸の土が盛ってある。その下はひよどり越えかと思わすような斜面である。その下に住宅が。これは怖いなー。結局そこで見えたのが森の横から顔を出す、ぎりぎりの絵だった。工事の囲いのパイプも見える。何ぼなんでもこれではダメ。もっと安定した場所があるはずだ。
「茶臼山やったら、案内しますよ」。膳所在住のFさんの言葉を思い出した。せっかく声をかけてもらいながら、勝手に出てきたのが悪かったらしい。とはいえ、こうなったら歩くしか手はない。昭和5年建立の石標がある。ワシが生まれる4年前か。なのに「古墳」という言葉を知ったのは戦後高校生になってからだった。教育のこわさだ。しかしそれはさておくとして、とにかく山が見えないのだから話にならない。Fさんに頼んで出直すか。くたびれ損で元の道を引き返す途中、何や、そこに見えるやんか。それが標題写真。Kさんの写真の記憶がよみがえってきた。確かにこんな写真だった。改めて周囲をよく見ると先ほどの男性がまだ絵を描いていた。最初ここを通ったとき、その姿に気をとられ、三上山を見逃していたことになる。そうだわな、この細い隙間からしか見えないだから。ほんの数秒のよそ見が原因だった。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


カラスと遊ぶ

おなじみの平湖である。半月ほど前の撮影だが、もうかなりの鳥が来ている。今ごろはもっと増えているだろう。だけど今日は水鳥の話ではない。
この平湖、淡水真珠の養殖が復活したと新聞に出るし、入り口の道路に駐車場ができたり、池のふちに休憩所ができたり(2015年7月撮影)、いろいろと動きがある。今日はそのうちの休憩所を使ったお遊びである。休憩所といっても、しっかりしたベンチがあるわけではなし、屋根があることはあるが、早い話が藤棚のアネさんみたいなもので、雨が降ったら逃げ出さなければないないような造りである。しかし人間不思議なもので、休憩するつもりがなくても、あればやっぱりその下へ入りたくなる。
この日、その休憩所の石のベンチの上で、レンズ交換をしていた。その時すぐ横の桜の木にカラスが3羽やってきた。黙って来ればわからないものをカアカアとにぎやかに楽隊入りで来たものだからすぐにわかる。どうせすぐ逃げるだろうと、身をかがめて覗いてみた。すぐそこなのに逃げないのである。アホなカラスもおるもんだ。休憩所の中を歩いてみた。知らん顔。7月に撮った写真を見ると空が見えるのは屋根のバーの2,3本まで。その奥からは空は見えない。ということは木の上のカラスからも、私の姿はほとんど見えないということらしい。その上に人間を馬鹿にしているから、少々のことには頓着ないのだろう。
レンズ交換が終わって、そーっと屋根の下から出た。相手はあほじゃない。その”そーっと ”がいけない。気配を察することに関しては昔のサムライより鋭い。すぐに2羽が田んぼの方へ逃げ出した。(おかしいな、2羽写ったはずだけど・・・)
もう1羽残っている。そいつがやっと気がついて、あわてて湖の方へ逃げた。一昨日、「北腰越」で書いたように、1回押せば単写、押し続ければ連写のうちの1枚が標題写真である。もう1枚おまけ。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


帰り道

安土城考古博物館からの帰り、遠くの民家越しに三上山が見える。この道へ出るとどうしても1枚撮りたくなる。そして思う、山がもうちょっと左にあればと。ご覧のように片側一車線の直線道路で、ほとんど車が通らない。周囲360度遮るものがないから、ちょっと後ろを注意さえすればこんなアホなことも可能である。ただし、すぐ後が十字路で左右からも車が来ることがある。これさえ注意すれば1枚や、2枚のシャッターは心配なく撮れる。
この道を走ると、不思議に60年前の喜作新道を思い出す。山へ入って3日目、燕から西岳へ向かう喜作新道、山道だから当然上り下りはある。しかし、初日、12時間の登りに比べれば天国だった。そしてなによりも右前方に見える槍が岳の姿が秀逸だった。そして今、わずかに右へずれた三上山の位置が、あのときの槍ヶ岳と重なるのである。右へのずれもまたヨシ。以上、二度と山へ行くことがなくなった80爺のたわごとである。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


北腰越

「北腰越」、観音寺山と安土山との鞍部である。そこを県道2号が峠で越え、JR琵琶湖線がトンネルで抜ける。ちなみに「南腰越」は県道201号、安土中学校の横を越える。
さて、北腰越、これはそのトンネルの真上、安土城考古博物館から自転車道が通じており簡単に行ける。現場に立つと、下り線が1本、まっすぐに三上山に向かっている。写真で見る限り単線に見えるが、上り線はトンネルに入る少し前に琵琶湖側へ離れていく。何かの事情で上下のトンネルを離したのだろう。余談だが、昔、蒸気機関車の時代、能登川稲枝間だったかに、下りはトンネル、上りは少し離れて切通しという箇所があったはずだが、いまは地図で見てもそんな場所は見当たらない。
いまの電車は静かである。昔だったら、トンネル内の音が出口まで伝わってきたはずだが、いまは音もなく飛び出してくるから、このように出口の真上で待つ場合、いつ出てくるかがわからない。それに対して上り電車はライトの明かりで遠くから見える。それが近づいてきた。シャッターを押した次の瞬間下り電車が忍者の如く飛び出してきた。私のカメラは連写モードがHとLに分かれていて、Lにセットしておくと、普通に撮って指を離すと単写、そのまま押し続けると連写になる。Hでそれがやれないかとテストしたが、意識して指を離そうとするためカメラブレが起こりやすい。そんなことで普段はL(遅いほうの連写)にセットしている。標題写真はこの後押し続けたうちの1枚。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


桑実寺・結

石段を登り詰めて右側、受付の向かい側に風情がある建物が見える。GoogleMapには正寿院とある。いわゆる塔頭だろうか。この建物と本堂の間をさらに奥へ、山の斜面に沿って大師堂という建物の前までさらに石段が伸びている。正寿院に気をとられ、この風景をカメラに収めてくるのを失念した。大失敗である。
その太子堂の建物の左側、軒下を突き当りまで進むと三上山が見える。それが標題写真である。山の写真は立つ位置の高さがものを言う。本堂の屋根も下に見え、イチョウの木の上に三上山が見える。長い石段を登ってきたかいがあったというものである。レンズをさらに伸ばすと山は大きくなるが、これをやると後々どこで撮ったのかわからなくなる。
帰りは、山門から下の集落までまっすぐ石段を下りた。途中、例の電線が上空で道を斜めにクロスしていた。30数年前、これはダメだと追いかえした張本人がこれだったのかもしれない。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


桑実寺

さしもの石段も先が見えた。山登りのときは、そこが頂上だと登り着いたら、まだ先が続いていたりしてがっかりするのが常だったが、ここはもう間違いはないだろう。最初の300mはとっくに超えているはず。カメラのプロパティで約20分。そんなもんだろう。クルマの運転でもそうだけど、だいたい山なんてものは、ゆっくり登ってもあわてて登っても所要時間に大差はない。
本堂。寺のしおりによると、重要文化財、入母屋造り檜皮葺。南北朝時代の建立、戦国時代にも全く戦火には関係なく、建立されたままの姿でいまに至っているという。そりゃそうだろう、こんな視界の狭いところで戦争する奴はいない。と、まあしかし、ボクとしては戦国時代の戦略につい関心があるわけでないし、誰の建立で、誰が祀られていようと、それもどうでもよい。それはそっちへ置いておいて、三上山が見えるか否かが問題。肝心の山は例のスサノオの谷間(ボクが勝手につけた呼称)で右へ隠れたままである。
このあたりだと思われるところを探す。受付の建物の横、木の向こうに見える。よし方向は決まった。あとはバックしてちょっとでも高い場所を探せばよい。そういう場所があるかどうか。見れば、本堂の後ろ多少高いところに祠がある。そこまでバックして撮ったのが標題写真である。スサノオの谷間での三上山は存在感があった。同じ大きさだけど、こちらでは山はどこかと探さなければならない。最低の条件というべきか。
祠の柱に無造作に打ち付けてあった板を見て驚いた。昨日の谷の鋭さを”スサノオの尊の鉈の冴え”と表現したが、その名前がここにあったのだから。(実際はきのうの文章が、この表示を見てのヤラセだけど)。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば


桑実寺

ちょうど半分ぐらい登ったところで、上から下って来る人が見えた。最初は参拝客かと思ったが、歩き方が全く違う。テンポが一定なのである。国会用語ではないが粛々と一定の速さで下ってくる。白装束だったのでご住職かとも思ったがそれも違う。近づいてよく見ると荷役の方だった。
その昔北アルプスで見た荷揚げの様子を思いだした。昭和30年代前半、山小屋への荷揚げはすべて人の手だった。私たち、20歳代前半の若いものがフーフー言ってバテているのを尻目に、背中から頭を越す大きな荷物を担いで、息一つ乱さずに淡々と通り抜けていったボッカの人たち。神業に見えた。「ボッカ」などと呼び捨てにできるものではなかった。その神さんが半世紀越しに目の前に現れた思いだった。登り口で見た道路が解決策かと思ったが、どうもあの道は桑実寺とは無関係なようだ。まだ当分この仕事は続くのだろう。
その神さんが通り過ぎた後を見上げると、あたかもスサノオの命が鉈を振り下ろしたかと思われる深い谷の向こうに、遠く三上山が一人、凛として立つのが見えた。
写真ステージ 「近江富士」
■近江非名所全集
■滋賀を歩けば

