不運な写真・2

「三上山風景事典」に入っていなかった写真が、ちゃんと昨日の標題写真に出てきているではないか。確かにおかしい。私自身、この写真は何冊目かの写真集に入っていると思い込んでいたのだが、実際にはどれにも入っていなかった。それがどうして出てきたのか。実は個展が終了した時点で、その回に出展した写真をまとめて一冊のアルバムにまとめていた。 何とまあ古い時代である。早い話が卒業アルバムである。最近TVで、”あいつこの頃どうしているかな”という番組がある。それを思いだして、あの写真どないやったかな…となった次第。
古いアルバムを引っ張り出して、2回目の個展に出品していたことが分かった。ナカバヤシのふえるアルバム、薄いビニールのカバーは剥がせたが、写真は台紙にくっついて離れようとはしない。仕方がないからビニールのカバーのままスキャナにかけた。色がおかしいのは30数年の年のせい。ピントがおかしいのは、ポジフィルムからネガを作ってという当時のシステムの回りくどさと、ビニールの上からスキャナーにかけたせい。
今日の標題写真は、きのうの”再会”写真である。結局きのうから何にも話が進んでいない。いやいや申し訳ない。実は昨日から、昔のことをちょっと整理しなおしている。昭和55年というのはどんな年だったのか。野洲川の下流部の姿を大きく変えた野洲川放水路の通水が昭和54年だという。「屋根光る」の1年前。だけれども、古い旧野洲川はそのまま残っていたはず。そしてもっとた大事なことがある。きのうから、撮影場所を明富中学校の前だとしている。しかし、しかしである。そのころ明富中学校はあったのか。
明富中学校という学校は数奇な運命で、戦後の一時期、同じ名前で存在し、何かの事情で廃校になった。その後新たに復活をしている。調べてみると、その復活開校が1991(平成3)年だという。「屋根光る」を撮った時には明富中学はなかったわけだ。
写真ステージ 「近江富士」
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不運な写真

標題写真は1980(昭和55)年5月の撮影である。その年の夏、京都三条寺町角のギャラリー”とーべぇ”で開いた2回目の個展に出展した。タイトルは「屋根光る」。撮影地は守山市水保町、明富中学校の前であった。ポジカラーで撮ってはいたが、ダイレクトプリントはまだできずインターネガを起こしてプリントしていた。その後のしゃきっとしたポジポジのダイレクトプリントに比べると画質の甘さは否めなかった。
実は昨日見てもらった旧今浜橋跡からのメタセコイヤの写真を撮っての帰り道、この風景に36年ぶりに再会した。それがこの写真である。”再会”というと、今までこの風景が神隠しにでもなっていて、天岩戸から現れたように受け取られるかもしれないが、今の時代そんな馬鹿なことが起こりうるはずはない。1980年以来ずっとそこに存在し続けたにもかかわらず、私が見逃していたのである。
煙抜きのある堂々たる日本建築、今回このデジタルの”再会”写真を撮った時、半信半疑ながら、ここがあの「屋根光る」の現場だったのではないかと思った。帰ってから、私のHPの「三上山風景事典」を使って。”守山・民家・屋根”で検索してみた。この標題写真が出てくるはずだった。それが出てこないのである。やっぱり違うのか・・・・。
実は、この「三上山風景事典」は、私がまとめた4冊の写真集と、その後、あいあい滋賀に連載した『三上山物語』をデータベース化したものである。当然、この中に入っていると思い込んでいたのだが出てこない。原版はフィルムである。これを確かめるのは簡単ではない。以下明日。
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メタセコイヤ落葉

快晴の日、地球の森の旧今浜橋跡を通って、ふと明富中学のメタセコイヤが気になった。ほとんど葉が落ちていた。同じ絵を12月8日に見てもらった。前回の写真である。撮影は12月7日。葉は褐色になりかなり落ちたように見えていたが、いまから見るとまだ結構残っていたことになる。今回の撮影が12月19日。2週間足らずで、随分葉が落ちたことになる。4,5日前に一日中強風が吹いていた日があった。多分あの日に落ちたのだろう。
不思議なことに真ん中の2本はほとんど葉が落ちつくしている。風当たりを考えると端から落ちて行きそうなものなのに、どうもそういうものではないらしい。こうなれば、8本全部が葉を落としつくしたところを撮っておかなければならないだろう。まあこれは、来年春までに撮ればいいのだから気は楽だ・・・と言っておきながら、忘れてしまうんだわ。
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野洲川歴史公園

昨日見てもらった「広い風景」で左のほうに見えていた木立のところである。といってもいまこの画面で見えている木々が、昨日の写真に見えていた木立というわけではない。それはこの画面右外、かつての堤防が残っている稲荷神社の森である。いまカメラが立つところは、かつての旧北流河川敷跡、サッカーのグランドに取り囲まれた野洲川歴史公園の中。意識しなければそこがかつての水防の難所であったことはわからない。しかし付近一帯の地図、航空写真を見ると大きく蛇行する流れのあとが見えてくる。
今年もあと旬日となった日、振り向けば比良山の稜線に白雪が細く見える。三,四日前の寒波で山麓近くまでかぶった雪が、さっと解けてしまったのだろう。ところどころに残る黄葉を除けば、冬を通り越して早春を思わす風景だった。
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広い風景

野洲川放水路の河口に架かる橋、中洲大橋を1番目として、ここは2番目の天満大橋。橋の右岸に天満宮が立つ。川はわずかに屈曲しながら下ってくるが、河口から数えて3番目から4番目、橋の名でいうと幸浜大橋から稲荷大橋にかけて、ゆるーくカーブしてここから見ると右の方へ流れ下っていく。もう昼前に近く太陽は右上にある。
いま写っている上流の橋は幸浜大橋、国道477号が渡っている。左に見える木立はそのもう一つ上流、稲荷大橋畔に建つ稲荷神社の森。ここはかつての北流がUターンしていたという難所。稲荷神社はかつての堤防の上に建つている。そして右端に見えるメタセコイヤ。稲荷大橋の左岸近くの中洲小学校の校庭に立つ。例年だとクリスマスツリーに変身するころだが。
稲荷神社とメタセコイヤの間は、直線距離で500m余り、いま見えている幸浜大橋の長さが約390m、広い風景である。
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落葉樹が何本か

JR琵琶湖線のほうからアンダーパスの側道を歩きながら前方に立つ三上山を見る。全体に曇った風景の中で三上山の中腹の一部だけに光が射している。うすぼんやりと照らされたその範囲に、色づいた落葉樹が何本か。半分以上が落葉樹に変わった山の向こう側に比べて、まだこちら側はごくわずかである。そして今、そのごくわずかな落葉樹のほとんどが光の下にある。偶然とは言え何か不思議なものを見るような思いだった。
赤信号の交差点が中山道。例の地蔵さんは交差点の左向こうに立つ。こちらへ向かってくる本線は緩いカーブを描きながらアンダーパスへ。側道へちょっと身を乗り出して構えているが、一方通行だから後ろからクルマが来る心配はない。
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暗雲

天気が目まぐるしく変わる。いままで晴れていたのに、あっという間に暗雲が。強い風に信号灯のアームがぶるぶる揺れているの見える。LEDの信号灯は撮りっぱなしでは怖いのだが、確かめる気にもならない。このときはたまたま撮っていた。しかし、画面全体がこの暗さだともっと明るく写っていいはず。どうやら100%の明るさではなかったらしい。もっと雲が寄ってくるのを待ちたかったが、その気にもなれず。
場所は、野洲中央道(大げさな名前だが、とにかく市街地を貫く道路はこれ1本しかないのだから)と、地蔵さん道路との十字路。市街地で山を見るなら、ここは絶対に外せないというところである。
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ラウンドアバウト交差点

円形交差点である。交差点に入る車は必ず円形の道路に向かって左折する。そのあと右回りに円形道路を走る。あとは好きなところで出ていけばいい。そんなアホなことをするご仁はいないはずだが、360度回ればトータルとしてUターンすることもできる。信号待ちでイライラしなくて済む分、気が短い私なんかには向いている。
場所は守山市立田町、旧野洲川南流跡の畠の中。見晴らしはいいのだが、ご覧のように一軒だけ倉庫が建っていてそれが結構目立つ。道路が円形であるということを写真に収めるには高いポジションがほしい。脚立に乗って狙いたいところだけど、それを運ぶのが大層だし。結局適当なところでお茶をにごして。
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